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平野啓一郎作品を読んで、一つの拠り所を得た自分と自問自答を繰り返す自分。
「最愛の人の他者性と向き合うあなたの人間としての誠実さを、僕は信じます。」
朔也が藤井亮治から受け取ったメールの最後に記されていた言葉。
私はこの言葉を受け、自問自答を繰り返している。
平野啓一郎は著書『私とは何か「個人」から「分人」へ』の中で、
【分人】という新たな概念について書いている。
分人とは、対人関係ごとの様々な自分のことである。
恋人との分人、両親との分人、職場での分人、趣味の仲間との分人、………それらは必ずしも同じではない。
たった1つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。
この【分人】という考え方、私はそれを心の拠り所とし始めた。
本の中に一つの例が挙げられていた。私の言葉でまとめる。
学校でいじめに遭っている子がいる。
その子が【学校でいじめられている自分】が【私の全て】だと考えた場合、逃げ場がないし、その自分から逃げようがない。
でも、もしその子が【学校でいじめられている自分】は【私のいくつもある分人の中の一つ】だと考えられたら。
家庭で幸せに過ごしている【私の分人の中の一つ】や、塾で友達とうまくやっている【私の分人の中の一つ】を足場とすればいい。
そして幸せを感じているほうの【分人】の比重を大きくすればいい。
私はこれを自分の娘にも話した。
小6の娘は、なんとなく分かっているようで、なんとなく分かっていないようだった。
この【分人】という考え方は、
私の拠り所としてだけではなく、娘の拠り所ともなるだろう。
「最愛の人の他者性と向き合うあなたの人間としての誠実さを、僕は信じます。」
そしてこの言葉。
私の最愛の人にも、対人関係ごとに見せる複数の顔がある。
その対人関係を持っている相手(複数)によって、その相手(複数)との過去から今までの経験によって、その人そのものが形成されていっているとも言える。
【他者性】、
それは私と対峙している時でさえ、その人の部分である【他者性】が垣間見えたり、或るいは、寧ろ【他者性】によってほぼ覆われているような時さえある。
この人が今私に見せているのは、紛れもなく【私との関係におけるこの人の分人】である。
でも、
「私が今この人に見せられている分人とは、一体誰なんだろう。どのように構成されてきた分人なのだろう。」
そうやって何かを疑い、自問自答を繰り返している自分がいる。
染