「信者」とは「思考しなくて済む居場所」のことだ ー 信じるという言葉の研究
「信者」はいろんな対象に対し発生する。
宗教とか、アーティストとか、政治家とか。
柔らかい言葉で言えば「ファン」とかもそうだ。
それをバカにする人もいれば、
陶酔できる対象がいて羨ましいと言う人もいる。
何かの「信者である」ということは
いいことなのか、否か。
信じる者
信じる者と書いて、「信者」。
そもそも「信じる」とは、その対象に関して疑いを持たないということ。
それって、捻くれた言い方をすれば「考えない」ということにもなる。
「信じるだけで救われる」みたいな宗教がまさにそうだ。
神様や預言者の言うとおりにしていれば「幸せになるための思考」を放棄しても大丈夫みたいな。
自分にとっての幸せとは?という正答のない問いについて悩みあぐねる必要がなくなるから、犯罪まがいな宗教はなくならないのだ。
歴史的に良くも悪くも宗教というものは、集団に対して広まったものが多いはずだ。
友人や家族が信仰してるから私も、という考えで入信した人は多かったのではないかと思う。
「みんなやってるから私も」は、典型的な無思考の行動だ。
信者ビジネス
私も何かしらのアーティストのファンであるので考えたくないが、アーティスト活動も信者ビジネスであるなぁと感じる。
もちろん当人たちにその意識がなくとも。
例えば私はロックバンドが好きだ。
音楽理論とかの知識はないが、好きなロックバンドの音楽は評価されるべき素晴らしいものだと「信じて」いる。
そこに「なぜこの音楽は素晴らしいのか」という思考はない。
めちゃくちゃ冷めた見方をすれば、私はただ「私が好きだと感じた曲を作った人」が好きで、それを作った人の音楽はすべて素晴らしいに違いないと思い込んでいるだけだ。
仮に好きなアーティストの作った曲と同じコード進行の曲があったとして、それを初見で素晴らしいとは感じないと思う。
信者はいけないことなのか
さんざん信者についていろいろ言ってきたが、何も
「信者はくそだ!ばかだ!」
と言いたいわけじゃない。
再三言うが、私もいくつかの対象への信者だ。
「信者は思考しなくて済む居場所」
これが私の「信者」への考え方だということには変わりない。
ただ、なんでもかんでも
思考しろ!頭を使え!
と言いたいわけでもない。
だってなんでもかんでも頭使ってたら疲れちゃうよ。
信者というのはひとときの御息所のようなもの
であるべきなんだと、私は思う。
普段から自分のこと生活のこと将来のこと...
とあれこれ考えてるからこそ、
何も考えず盲目的になれる居場所なのであって、
自分の選択の責任を放棄して信じる対象に
寄りかかっていては良くない。
人を信じること
「人を信じちゃいけない」とまでは言わないし、
まったくそうは思わない。
しかし、そもそも「人を信じる」ということ自体が先述の「信者」という無思考的行動に当てはまる。
親の言うことを信じて言われた通りに生きる。
友達の「絶対稼げるよ!」を信じてビジネスに手を出す。
上司の出世方法を信じて上に媚びへつらう。
ニュースサイトを信じて分かった気になる。
インフルエンサーを信じてサロンに入る。
美容系YouTuberおすすめのサプリを使う。
どれも他人に思考を委ねている行為である。
全て悪いことをしてるわけではないが、少なくとも「そこに自身の思考はない」という自覚は持ったほうがいい。
「信じてたのに騙された!」という言葉は正しくない。
「私が勝手に思考停止して選択を放棄した結果、損をした!」と言う方が正しいのだ。
「ときどき信者」のすゝめ
自分のことは自分で決めるべきだけど、自分にあまり影響のないものに対しては信者になって一息つけばいいと思う。
人生のことは自分で考えて、
自分の力の及ばないことは神に祈る。
自分の好きなものは自分で判断して、
好きなアーティストの曲には無条件に陶酔する。
選ぶのがめんどくさいコスメ関係は、
友達の勧めたものを使う。
このように、失敗しても叶わなくても取り返しのつくものに関して、ときどき信者になるのは全然ありだと思う。
反対に、「主体的に!」「自立しなきゃ!」と肩に力を入れすぎてしまってる人は、意識的に「信者」になってみればいいのにな、とも思う。
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「信じる」ということにちょっとメスを入れてみた。
ステキな言葉のように扱われがちな言葉でも、実は毒性を孕んでいることもある。
別に信者ビジネスに恨みはないし、なんなら私も何かしらの信者だ。
そしてこんな斜めな考えを持ってると「生きづらそうですね」と嫌味を言われることもある。
でも、言葉について考えるのは楽しいのだよ。
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