人生は、メリーバッドエンドで。
※映画「LALALAND」のネタバレを含みます。
この前、はじめて「LALALAND」を観た。遅すぎる。
何度もタイミングを逃して、ここまで一切観ることなく来てしまった。
でも、この日まで観なくて良かったと思うほどに最高のロケーションで、幸せな120分を過ごした。
そして、これを初見で観るのが"今の私"で良かった、と思った。
「これ、ハッピーエンドじゃなかったんだ」
観終わった後の、私の感想。
勝手に、ハッピーエンドなものだと思っていて。
これだけの人気作品、評価も高いのだから、観た人みんなが分かりやすく幸福感に包まれるような映画なのだと思っていた。
だから「あれ、思っていたのと違う」と思い、
"LALALAND ハッピーエンド?"で検索をする。
そこには、私は先入観ありきでの見方しかできていなかったことに気が付くレビューで溢れていた。
そしてこう思った。
「あぁ、これがメリバというやつなのかな。」
「メリバ」とは、メリーバッドエンドのこと。
この言葉を知ったのは何がきっかけだったかな、いつのことだったかな。全然記憶にないや。
でもはじめて、この言葉がしっくりとくるような出来事だった。それが私にとってはこの「LALALAND」だった。
私が「LALALAND」を
"ハッピーエンドじゃない"と思った理由。
それは、この作品を恋愛映画だと思っていたから。
私が観る前に事前情報として知っていたのは、あのポスターと、あの曲、ミュージカル、ということだけだった。
ポスターには男女2人がメインビジュアルで描かれ、
キスをする2人、ダンスをする2人。
それにこう書いてあった。
"観るもの全てが恋に落ちる"
それでいて、あのいかにもハッピーな曲。
2人の恋模様を描いた作品なのだと、完全に思い込んでいた。
だからその作品の結末が"2人は結ばれなかった"ということは、私にとって想像していた結末と違っていたわけで、それは"バッドエンド"だった。
でも、2人の涙や互いに心残りがあるような映像で終わりを迎えたわけではなくって、2人は最後に、言葉を交わさず目と目を合わせて、やさしく、ちいさく、微笑むように頷き合った。
私の想像と違っていた、という意味ではバッドエンドなのだけど、2人の気持ちとしてはハッピーエンドなのかな。
レビューを見て、あの時自分の中で感じた小さな違和感を重ねた。そこでようやく、私が恋愛映画だと思って観ていたことがそもそもの間違いであったことに気が付いた。
この作品は、この2人は、何だったのかというと。
"2人の夢を描いた作品"だった。
ジャズピアニストで、古き良きジャズを
愛でることのできる自分の店を持つことを夢見る、セブ。
オーディションを受け続け、
女優になることを夢見る、ミア。
その2人がロサンゼルスで出会う冬から、翌年の秋まで、そして5年後の冬を描いた物語。
結果として、セブは自分の店を開き、ミアは大女優として成功をした。
だから、"2人の夢を描いた作品"として観ると、これ以上のハッピーエンドはないというほどに、幸せな結末だった。
お互いが優先したものは、
2人での恋愛ではなくて、2人の夢だった。
もちろん、夢も恋愛も、どちらも2人で叶えられたらそれが1番の幸せなのだろうけど。
でも私たちが生きるノンフィクションの世界では、なかなかそうはいかない。だからこそこの結末が、フィクションである作品の中に現実味があって、私は好きなのだと思えた。
ミアの5年後にはセブではない旦那さんと、その間に生まれた子供がいた。
だからミアが恋愛や結婚自体を諦めないといけない夢を持っていたわけではなかった。
ただ、その相手がセブではなかったということ。
最後にセブとミアが結ばれていた世界、パラレルワールド的な映像があったけれど、ミアはセブとの関係性を維持したまま自分の夢も手に入れていたのに、セブはミアとの恋愛しか手に入れることができていなかった。セブの夢であった自分の店を持つこと、は叶っていなかった。
ミアはどちらの選択をしても自分の夢を手に入れることができたことに対して、セブの夢はミアとの未来の中では叶うことがなかったのだ。
5年後、冬のある日。
ミアが旦那さんとたまたま訪れることになるジャズバーは、かつてミアがセブに提案した店名を持つ店だった。
そこで2人は5年ぶりに再会し、セブはミアが客席にいることに気が付いて、2人の思い出の曲「Mia & Sebastian's Theme」を弾き、先ほどのパラレルワールドの映像が始まる。
曲の終わりと共に店を出ようとするミアは、セブと言葉を交わすことなく見つめ合い、無言の会話のような時間が流れる。
そこには互いの気持ちを分かっていると、言葉を交わさずとも分かり合える、2人だけの時間があった。
メリーバッドエンド。
私にはこの言葉が、自分の人生にテーマを決め、そのテーマ次第で結末はハッピーエンドにもバッドエンドにもなるのだと、そういう意味を持つ言葉に聞こえた。
たとえば、私の人生を終える時。
私の人生に対して"家族"や"生い立ち"をテーマにしたのなら、それは今のところバッドエンドだし、"友情"をテーマにしたのなら、ものすごくハッピーエンドな作品を作ることができそうだ。そのぐらい、私は友人に恵まれてきた。
そうやって、私たちの人生は"何を軸とするか"によって、ハッピーエンドにもバッドエンドにもできるのかもしれない。
ただその"軸"をはっきりと、しっかりと自分の中に持っていないと、その時の感情に流されて本当に大切なもの、大切にすべきはずであったものを捨ててしまうことがある。一時の感情でその決断をすべきではないのに。
私は仕事さえ上手く行けばそれでいいのだと、仕事を自分の軸にして、それが自分の本心だと思ってここまで過ごしてきた。
「いつもそう言ってるけど、でも、本当はそうじゃないでしょ?」と友人に言われた時は、なんだか見透かされている気がして戸惑ってしまった。
だけどその答えが、私にはこの映画の中にあった気がして、これを観るタイミングが今で良かったと思った。
自分が本当に欲しいと、叶えたいと願う夢を、誤魔化したり忘れたりしてはいけないな。
その嘘は、いずれ自分を見失うことになるから。
冒頭の話に戻るけれど、"最高のロケーション"というのは、海沿いにつくられた大きなスクリーンでこの作品を観ることができたから。
夕焼けで水面がきらきらとオレンジ色に輝く時間から、星が見える深い夜にかけて、作品と共に120分を過ごした。
物語の終盤、曲に合わせて突然花火が上がり始めて、それは予期せぬ素敵なサプライズだった。
花火大会とは違う、しんとした空気の中で上がる花火。打ち上がる本数は多くない、だからこそ特別だった。
大きな音と共に花火が打ち上がる。
その瞬間、外の音も映像の音も花火の音も、すべてがなくなって、無になって。
その一瞬に生まれた余白の後に、花火がきらきらと落ちながら音楽が流れ始めた。
無の空間から1音目がはじまる、きっと1秒もないぐらいの時間。その1秒未満が永遠に思えるぐらいに、映像と花火と空間が混ざり合った。それが最後の花火だった。
映画が終わると同時に、拍手がぽつぽつと、何処となく起こり、あの場にいた人全員があたたかな空気で包まれたかのような体験ができたことが幸せだった。
映画館で観るのとは全く違う特別な時間、贅沢な時間が、より私の考えを深めさせてくれたのだと思う。
この時間が、私に夢を持つことの意味、
それを追い求め続けることへの覚悟と勇気を。
そして"ハッピーエンド"の意味と
その結末を迎える方法を教えてくれた気がした。
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