SNSを休み、細胞で感じた世界一周の旅
2024年10月、1年半ぶりに帰国した。
ワーホリで過ごしたカナダのユーコンを出発してから
日本に帰るまで、地球半周するように半年ほど、約30ヶ国を旅してきた。
カナダ、メキシコ、グアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、チリ、アルゼンチン、ボリビア、ペルー、コロンビア、スペイン、フランス、スウェーデン、スイス、デンマーク、ポルトガル、モロッコ、イタリア、バチカン、ギリシャ、アラブ首長国連邦、スリランカ、タイ、そして日本へ。
旅に出て良かった。
日本を出発した1年半前、その時の気持ちはここに残している。
今日はもう少し詳しく、ここに書き留めておきたい。
価値観を真っ新にしたくて
平和に、そして穏やかに。
時には忙しく楽しい日々を送っていても、違和感を感じることもあった。転職や移住もして、変化の多い日々を送ってきた方かもしれないけど、自分なりの物の見方や思考のループが出来上がってる気がした。良いことも悪いことも大体のことを予想してしまう。起きてもない事をこうなるだろうと決めつけて、自ら可動域を作り出してしまっている自分がいる。それが行動を抑制させた。その輪郭ができていけばいくほど、幼少期に好きかもと思えていた内面さえ、失いかけていく気がしていた。
年を重ねると、自分の直感的に好きなものや信じたいものは分かってくる。それがまた良いのに、厚みが増していくところなのに、一方で自分の型にはまりたくなくなる。もはや、そういうのも全て一度なくしてしまって、一つ一つ感じることから始めてみたくなった。まるで赤ちゃんが産まれて初めて見る世界のように。
もう一つには、大学時代に海外留学のタイミングを逃した心残りがあったこと。生きることに、どう生きるかということに、言い訳したくない。思い切ってやりたいことをしよう、と。夫が30歳になったタイミングで、ワーホリビザを取得。
カナダで貯めた資金で、夫婦2人旅に出た。冒険好きな夫ということもあり、基本バックパッカー。途中で、パタゴニア自転車旅やアマゾン川のハンモック船移動をするなど、なかなか鍛えられる旅となった。
SNSを休んでいた理由
ボリビアで、思い切ってInstagramのアプリをアンインストールした。このきっかけとなったのは、カナダで出会った大好きな元同僚のお別れの時にかけてくれたアドバイスだった。特に彼女はSNSをやってない。でも自分の時間を大切にしていて、休日には必ずシンプルなスコーンを焼くという、そんな彼女の雰囲気が大好きだった。
そして彼女は私に、
「旅に集中しなさい、まず感じなさい。Facebookには投稿しないでいい、これは未来に向かうあなたのための旅だから。」という言葉を私にかけた。
その言葉通りに、投稿は辞めた。ただ、InstagramやFacebookのフィードを見ないようにすることは難しかった。今の時代、SNSは世界のどこへでも繋げてくれる。
ボリビアは本当に良い国だった。人の活気とノスタルジックさが残り、Mercadoと呼ばれる市場がどこの町にもある。チョリータというマヤの原住民族の女性たちが、長いお下げ髪をして、フワッと横に広がるスカートを履いて町を歩く。
私はそんな旅らしい環境を楽しみながらも、連日の夜行バスや刺激あり緊張感ありの環境下にいたことから、体調を崩し、ベッドで寝ていた日々があった。ただ健康でいられることが、何よりも幸せなことだということ改めて気付かされた。そんな状況で横になりながらも、無意識の内にスマホに触れてしまった時、罪悪感に苛まされる。あちこちに意識が飛んでいくスマホは、絶対に自分の身体を直してくれない・・・と。そこで、いっその事しばらくアプリを消してみよう、と心に決めた。
そこからは、受け取る情報を最小限にし、信じるのは自分の直感のみ。たった一つのバックパックを抱えて、分散されていた意識を旅に全集中させた。
思えば、高校生くらいからInstagramやFacebookを初めて、常にSNSと繋がってきた。そのおかげで、沢山のご縁を繋げてもらったことは間違いないし、感謝だ。今回はひとまず”お休み”という形で、自分自身の変化を楽しもうと思った。
(心配してくれた人もいたみたいだけど…私はおかげ様で元気です!)
細胞で感じたこと
旅に、今この瞬間に、集中した。
その分、人との素晴らしい出会いに感謝し、地球の裏側の風景を目に焼き付けた。
半年で巡れた場所はほんの一部でしかないけど、どこの場所も特有の空気感と個性に溢れ、また人々の活気やエネルギーに触れた時にはとても刺激的であった。
世界は広い。
陸続きに、山を越えれば別の食文化や人があり、
川を降れば孤立した村でも生活は営まれ、
海を渡ればまた別の民族が築いた歴史と社会がある。
そこには、共通認識としてあると思っていた便利さや当たり前の基準が、どこにも見当たらなかった。
自分が正しいと思って積み重ねていた価値観や常識は、次の町へ踏み入れる度に掻き消されていった。自ら正しいと思い込んで作り出した指針のような偶像は、在ってないようなものかもしれなかった。
さらに、何も無い境地を感じた。
この大きな惑星の上で起こることの、良いことも、悪いことも。
生きていたら何かが起こるけど、それも自分の見方によるものでしかない。
もちろん悲しいとか、怖いとか、嫌だとか、感情は揺さぶられるだろうけど、 どう捉えるかは自分次第でしかない。
そこに善し悪しは存在しないようだった。
元々存在していた自然のリズムに、そこの判断基準が存在しなかったから。
自然界ではひとときも同じ時間はなく、
森の中では常に微生物が動き、風が吹き、木が呼吸している。
川は地形を変え、木を飲み込み、それでも尚流れ続ける。
好きな本「旅をする木」で語られる情景を重ねて、旅を振り返る。
旅の前よりもよりリアルにこの文章の情景が浮かぶ。
変化が当たり前の世界で、柔軟に自分の思考を変えていく必要があると思う。また、何事にも決めつけずに可能性を創造(想像)していくのは、気楽で楽しくて良い。時に流されながらも、舵を取っていく。
これからも、そんなスタンスでいたいと思う。
悶々としていた気持ちはいつの間にか無くなり、軽くて、どこまでも進めそうな、今はまだ旅行後特有のフワッとした感覚が余韻として残っている。
人生は思ったより、シンプルで良さそうだった。