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名作にくらいつけ! 安部公房「砂の女」(3) ~比喩、不可知なものに輪郭を(四)~


(2400字程度) 


 問題の比喩とは、こういう話だ。
 これまで紹介してきたいくつもの比喩は、もちろん優れてはいる。優れてはいるが、比喩の形としてはシンプルなものばかりだ。見えたり触れたりしているもののあり様を、あるいは心情を、何かに喩えて伝えようとしたものだ。
 次に紹介する比喩は、それらと較べて少し複雑で、そもそも語りのレベルそのものが一段上のところから発せられている。わかりやすくするために、実例から先に紹介する。

・・・せっせと飛んでいるつもりで、実は窓ガラスに鼻づらをこすりつけているだけのオオイエバエ・・・

同上、129ページ

 さらに、もう一つ紹介する。

逃げ道だと思って、身をおどらせた柵の隙間が、実は檻の入り口にすぎないことに、やっと気づいた獣・・・何度か鼻面をぶつけて、金魚鉢のガラスが通り抜けられない壁であることを、はじめて知った魚・・・

同上、137ページ

 これら二つは、どちらも同じような事柄を示している。
 簡単に言ってしまえば、主人公、二木の置かれた状況だ。細かいことはさておき、二木はこの時まで、主導権を握っているのは自分の方だと考えていた。しかし、実際はその逆だったと気づき始める。そして、この比喩なのである。これらの比喩は、その時の二木の境遇、状況、あるいは、二木を中心とした小説中の世界の在り方自体を、表現したものだ。

 さて、ここで私は、首をもたげる。

 これらの比喩を語っているのは、一体誰か。
 これらの比喩は、どの立場から発せられたものなのか。
 二木だろうか。しかし、どうやらそういう訳でもなさそうなのだ。

 前後の文脈を見れば分かるのだが、実はこれらの言葉は、二木の立場から発せられたものではない。
 この小説「砂の女」は、一人称と三人称の混ざったような形で語られる。その時々の状況次第で、一人称と三人称の間をたゆたいながら、しかるべき視点から地の文が語られる形となっているのだ。
 これらの比喩が二木の立場から発せられたものでないならば、語りの視点は自ずと定まる。三人称で語る立場。いわば、作者の視点だ。神の視点などとも呼ばれる。

 地上を見下ろす神のように、作者は自らの作り出した世界を俯瞰している。そして、世界が今どのようなものとなっているのか、読者に向けて比喩を交えて語っているのが、先に示した比喩なのである。

 このような比喩は、全く珍しいものの部類に入る。そもそも作者の影が作品中に顔を出すこと自体が珍しいのだが、その上さらに、今この時の状況までをも語っているのだ。そこでは語り手=作者の図式が見事に当てはまることになる。全くイレギュラーな形の比喩と言っていいだろう。しかしこの後に示す、いくつかの比喩は、さらに錯綜したものとなっている。

 一旦遡って序盤の方に目を向ければ、こんなふうな比喩が表現されていたことに気がつく。

・・・蟻地獄の中に、とじこめられてしまったのだ。うかうかとハンミョウ属のさそいに乗って、逃げ場のない沙漠の中につれこまれた、飢えた小鼠同然に・・・

同上、57ページ

 文庫版にして未だ57ページ、小説全体で31章あるうちのたった8章目での比喩である。読者も「砂の女」の世界に慣れ始めた、序盤も序盤でのこういった比喩は、少なくとも私の少ない読書経験で言えば、他の作品で目にした記憶がない。
 これから起こることを予告するかのように、作者の視点から、比喩の形で読者に前もってほのめかしているのである。小説の完成度に自信がなければこんなことは書けない。
 比喩自体も素晴らしいものだが、作者の自信がうかがえるという意味でも、記憶に残る特異な比喩だ。

 どんどん紹介していこう。紹介すべき比喩がまだまだあるのだ。さらに特異な比喩がある。無視したくてもできない比喩が、まだいくつか残っているのだ。

 続けて二つの比喩を引用する。

待つ時間はつらかった。時間は、蛇腹のように、深いひだをつくって幾重にもたたみこまれていた。その一つ一つに、より道しなければ、先に進むことができないのだ。

同上、134ページ

なるほど、時が馬のように駆け出したりすることはないかもしれない。しかし、手押し車より遅いということもなさそうだ。

同上、140ページ

 これら二つは、時間の進むのがいかに遅く感じるかを、比喩で示そうとしたものだ。細かな事情は伏せるが、暑さと渇きに耐えながら、二木は時の過ぎるのをじりじりしながら待っている。その二木の状況を、俯瞰の視点からうまく表したのが、これら二つの比喩だ。

 時の進み具合まで比喩で表すとは、恐るべき技量である。
 そもそも、時間には、実体がありそうでなさそうでどちらとも定めることが出来ない、というつかみどころのない性質がある。
 さらに言えば、同じだけの時間が過ぎても遅く感じたり早く感じたり、というふうに、形式的な時の過ぎ方と内面における時の過ぎ方で違いが生じてくる、という側面を持っている。
 時間とは、実に複雑に錯綜したものをうちに含んでいるものなのだ。
 上の二つの比喩は、その理解に困難が付きまとう時の経過を中心に据えた上で、二木の切迫した内面をも視野に含んでいる。これだけ複雑なものを、これだけ簡潔に伝えた比喩は、そうそうお目にかかれるものではない。
 考えても見てほしい。喩えの対象が時間なのだ。正直なところ、その発想自体が私にはなかった。
 一直線だと思っていた時が、実はひだを作っていたのだ。ただ語るだけでも大変なものについて、比喩で語られてしまった。やりきれなくて、金輪際、書くのをやめてしまおうかなどと考えてしまう。

 しかしここまで来てやっと、比喩について考えを進めてきた甲斐が出てくる。


(つづく)


[残るは最後のフィナーレのみです。もうあと一つ読み進んで、どうぞ爽快なフィナーレにして下さい!また明日もお待ちしています!!]


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