クララとお日さま | 読書感想文
⚠️ ネタバレあり
読んだ本
カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳『クララとお日さま』早川書房、2021
初めてカズオ・イシグロを読みました。カズオ・イシグロはいろいろな本で「不穏な語りの操作に長けてる」「信頼できない語り手を用いるのが上手い」というような紹介をされているので、ちょっとむずかしいんじゃないかと警戒しつつ。
あらすじ
人工知能を搭載したロボットのクララが物語の語り手です。やはり得意の「信頼できない語り手」を使っていますね。
クララはAF(おそらくartificial friendの略)というロボットで、人間の子どもたちの生活面やメンタル面のケアをするために開発されたようです。
クララが販売されているお店の場面から物語は始まります。AFたちは人間の細かな表情や仕草をよく観察し、人間への理解を深めることを店長さんから求められています。どのAFも誰かに買い取られることを夢見、良きAFになれるよう努力しているようです。
クララはジョジーという女の子に気に入られ、ジョジーの母親に購入されます。ジョジーは基本的に優しくて良い子なのですが、病弱で社会性も高くない、少々手のかかる子でした。クララはAFとしてジョジーのサポートにベストを尽くします。
ロボットを通して見る世界
まずSF世界の立ち上げ方が良いなと思いました。説明的なところは全くなく、ストーリーの中で自然といろいろなことが明らかになっていきます。
たとえば、「向上処置」という聞き慣れない言葉が序盤で出てきます。これはおそらく個人の能力を向上させるための手術かなにかのことです。
この世界には向上処置を受けた人間と受けていない人間がいて、その分断が進んでいること。向上処置を受けない(もしくは受けられない)者は、大学に行くことすら厳しいということ。また、向上処置にはリスクが伴い、健康状態に悪影響を及ぼしたり、最悪の場合は死に至る可能性もあること。そんなダークな世界が徐々に浮かび上がってきます。ジョジーの体調不良も、向上処置の副作用のようです。
信頼できない語り手から与えられる制限された情報を自分で組み合わせ、あれこれ予測したり辻褄合わせをしながら能動的に読んでいける点も、この小説の面白さのひとつだと感じました。
クララの健気さに心を打たれる
そして、この小説の最大の魅力はクララの健気さだと私は感じました。
クララは常にひたむきに努力し、ジョジーに一途に献身します。冷たくあしらわれようが、嫌な態度を取られようが、その姿勢は一貫して変わりません。そんな姿に誰もが心を打たれるのではないでしょうか。
時には自分を犠牲にしてでもジョジーの役に立ちたいと頑張るクララはとても健気で美しく、私が今まで読んだどんな小説のどんな登場人物よりも誠実で愛に溢れていました。
そんなクララが語り手なので、当然かなり感情移入してしまい、読みながら「がんばれクララ!」「クララえらい!」「無理しないでクララ😭」と、つい応援してしまいました。
人間への冷ややかな目線
そんなわけで『クララとお日さま』は温かい気持ちになれる素敵な物語でした。とはいえ、心温まる友情物語ーーだったかというと、ちょっと違うような気がします。
私はむしろ、この小説が人間に対して悲観的・否定的だなという印象を受けました。かなり冷ややかなのです。
クララの愛と知性が細やかに美しく描きだされるほど、人間である他の登場人物たちの「愛の浅さ/知性の低さ」が強調されてくるからです。
この小説にはたくさんの人間が登場しますが、皮肉なことにそのうちの誰も、クララに匹敵するような純粋で誠実な愛を持ち合わせていないのです。
ジョジーはクララに優しく、友達のように振る舞いますが、そこに友情はあっても深い愛はないようです。少なくともクララほどの純粋な愛はありません。同年代の子どもたちの集まりでは、自己防衛のためか、クララを貶して笑いを取ったりもします。
「クララに見たことない景色を見せてあげたいから、遠出をしたい」とジョジーが母親に言い張る場面もありましたが、それは母親が非常に意地の悪いかたちで指摘したように、自分の希望を叶えるための手段のひとつでしかありません。クララとの永遠の別れのシーンでさえも、ジョジーは意外にあっさりとしています。
対ロボットだから愛がないだけだという見方もできないように思われます。ジョジーは幼なじみで恋人のリックに対してもむずかしい態度を取ります。結局二人は別々の道を歩むことに。
また、ジョジーの家のお手伝いさんのメラニアはジョジーを大事にしてくれていますが、ジョジーが彼女に温かい感情を返している描写は見られません。ジョジーは大事に思ってもらっていることに気づいてすらいないかもしれません。
ジョジーの両親にも同様に愛があまり見られません。二人はとっくに別れているし、会えば簡単に口論になります。ジョジーの「肖像画」の件は、両親のいわば自己防衛のためにやっていることであり、一切ジョジーのためではないのです。むしろジョジーを深く傷つける危険性が極めて高い行為でしょう。
リックの母親のヘレンとその元恋人も、喧嘩別れし、再会して、また喧嘩別れをする始末です。そう、メインキャラクターのカップルは、遅かれ早かれ全員破局します。
「そうした感情の起伏や関係性の微妙な変化こそが人間を人間たらしめるのであり、それが美しく素晴らしいことなのだ」という考え方もあるとは思うのですが、この小説ではそんなふうに肯定的に描かれてはいないと私は感じてしまいました。
時折出てくる「格差社会」の描写も、格差そのものに焦点を当てているというよりは、人間の「愛の浅さ/なさ」がもたらした最低な現象として描かれているというように感じます。
クララの太陽信仰
ところで、クララはお日さまを崇拝しはじめ、お日さまにお願いごとをしたりもするようになります。太陽エネルギーで動くロボットなので太陽に向かうような設計は当然されているとは思うのですが、太陽への信仰心はクララが自分で考えた末にたどり着いたものでしょう。
太陽崇拝は、原始的な社会で広く見られる信仰です。クララの知性はとっくに古代の人間の域までたどり着いているのです。
そしてクララはお日さまをも真っ直ぐ信じ、人生の最後には「お日さまはわたしにとても親切でした」(p432)と追想します(そうでもない時もあったように思えるのですが)。クララは自分の神を信じて世界を愛することもできるのです。
私はクララのお日さまに対する信頼を最初は微笑ましく見ていたのですが、次第に不安になっていきました。クララの間違った期待は裏切られるだろうと思っていたからです。
しかし結局はクララの信じていた通りになります。そうか、間違っていたのは自分だったのかもしれない、と思いました。
ーー以上、読後そんなようなことを考え、私の頭の中には「これほど高い知性と深い愛を持つロボットに勝る何かが、一体人間にはあるのか?」という悲しい問いが発生してしまいました。
希望
作中で科学者のカパルディはジョジーの母親にこんなことを言います。
しかしクララは人生の最後にこう振り返るのです。
ちょうど「自分が自分であること」は、たぶん他者との関係の中で規定されるのだろうと最近思いはじめていたところでした。周りの人を大切にして人間らしく生きていこうと改めて思わされました。ロボットのクララに。