なんでもない暮らしのディテールと世界の手ざわり
子どものころから英米の物語が好きだった。遠い国への憧れや好奇心から、外国の物語をたくさん読むようになったのだと思う。
きっかけは憧れだったものの、英米小説ならではの物語のつくりのようなものも好きになった。
そのひとつが、客観性が高くてきめ細やかな情景描写が多いことだ。
たとえば私の好きな『フラニーとズーイ』というアメリカの小説の中には、こんな一節がある。
私はこのなにげない描写が好きだ。
実はこの描写は物語全体を象徴する一節とも言える、と思う。ざっくり言うと、この小説は主人公フラニーがエゴに満ちた教授やらクラスメイトやらがひしめくカオスな社会にうんざりし神経をやられるが、のちに純粋な愛に救いを見出すという話だからだ。「金メッキのマドラー」は希望の光なのだ。マドラーはのちに黄金色の「チキンブロス」に姿を変えて再登場する。
けれど、そのこととは無関係に、この描写そのものが私には素敵に思われた。読んでいてなぜかほっとする。心にやわらかい光がぱっと灯るような。理由はわからなかったが、こうした英米小説によくある名詞の羅列が昔から好きだった。
大人になってからは小説だけではなく詩も読むようになり、詩の描写がより精緻であることに気づいた。
最近読んだ句集『水と茶』からお気に入りの句を引用してみる。
それ自体にはとくになんの意味もないものを緻密に描写している。英米文学の情景描写を読んだときと同じよろこびを覚えた。
そしてこのよろこびは、《世界や人生に直面することに対するよろこび》なのではないかと最近ふと思った。
善悪や正否や優劣などのフィルターをいっさい通さず、ただそこにあるディテールを、あるがままに見つめるということ。
それは生身で世界に真っ直ぐに向き合うということ。生の実感を得ること。
ふつう社会の道理に沿って生きていると、ある夜に手の甲でカーテンを支えながら月を見たことや、定期券に前の住所が記載されていることは、意識にのぼらない。世界にダイレクトに接するのがむずかしくなってしまう。
またある本を読んでいて、こんな一節に出会った。
この「防波堤を築く」という考え方がとても気に入った。
たしかに、暮らしのディテールに目を向けて世界に直面させる役割を果たすのは、なにも文学だけの特権ではないはずだ。
家事をしているときはつい次のタスクや明日のスケジュールに気を取られがちだが、これからは情景描写をするように家事に集中してみるのもよいかもしれないと思った。