三浦綾子泥流地帯・続泥流地帯を読んで考えた|人は何のために生きているのか?
今、自分の中で空前の三浦綾子ブームが起こっています。
以前書きましたが、なせじょーじさんのおススメがきっかけなんです。
「塩狩峠」読了後に読んでいる
泥流地帯と続泥流地帯。
現在「続泥流地帯」読んでいる最中なのですが、とにかく「伝えたい」気持ち抑えられない。
なので、まだ読書途中ではありますが、感じたこと、伝えたいことを書き綴ってみます。
ちなみに泥流地帯について。(ウィキペディア)
『泥流地帯』(でいりゅうちたい)は、三浦綾子の小説。1926年5月24日の十勝岳噴火とそれに伴う火山泥流(ラハール)にまつわる物語を描く。1976年1月4日から9月12日まで北海道新聞の日曜版に連載。また、続編にあたる『続・泥流地帯』が1978年2月26日から11月12日まで同じ北海道新聞の日曜版に連載された。1977年(本編)、1979年(続編)に新潮社から出版された。
※十勝岳噴火(ウィキペディア)
1926年の十勝岳噴火(1926ねんのとかちだけふんか)は、1926年(大正15年)5月24日に北海道の十勝岳で発生した大噴火である[1]。火山爆発指数はVEI3[2]。この噴火によって大正泥流(たいしょうでいりゅう)と呼ばれる大規模な融雪型火山泥流が発生し[3][4][5]、144人の死者・行方不明者が出た[6][7]。
俺は心で考えたいんだ
泥流に飲み込まれ目の前で、我が家と祖父母、妹、耕作地の全てを失った、兄拓一と弟耕作が、村の合同葬儀の時に口にしたこちらのセリフ。
「そうだなあ、耕作の言うのはもっともだ。耕作の言うことは筋が通ってる。お前は頭で考えるからなあ。だがなあ、耕作。俺は心で考えたいんだ。」
泥流に使った土地に残って再び田畑をおこす。
それが、開拓者としてこの地に入ってきた祖父母の思いを組みたいという兄拓一の思い。
しかし、弟の拓一は、農家をやりたければ、もっと別のところに移り住んでやればいいと言う。
つまり、この土地。離農した跡地をあえて選び、そこで再び農家として生きると決意した兄拓一のこちらのセリフ。
兄拓一は、祖父祖母、妹を救うために、弟耕作の面前で泥流に身を投じた。
感じたまま、思いのままに生きる人。そんな印象を拓一からは受けます。
それに対して、弟耕作は、思考の人。
思ったことを、考える訳です。
すると、どう考えたって、こんな泥流に飲まれた土地で再起を図るより、新天地でやり直した方が良いとわかる訳です。
無駄なことはしない。効率よく。
そんなことがいつの時代も持て囃され、愚直な生き方がさげすまされることもあるのではないでしょうか。
しかし、三浦作品の共感できるところは、「思考の人耕作」はそんな兄の思いを汲んであげる心の温かさがあることです。
つまり、人の心の根っこにある思いをきちんと受け止められるのです。だからこそ、彼は子供たちの心をとらえる素晴らしい教員になれたのだと思います。
三浦作品の主要人物には、共通してこのような心の温かさ・愛を感じます。
これは、私の想像ですが、敬虔なクリスチャンである作者は、
万人の根底には神の子として愛がある。
そんな認識があるからこそ、どんな人物も、その人なりの苦悩があり、それを抱えながら懸命に生きている姿を描いているのではないかと感じるのです。
作者が愛の視点で人物を描いているからこそ、読者は、多くの人命が奪われたこ重いテーマの作品の中においても、生きる希望や勇気を感じ、共感を持って読了できるのではないでしょうか。
清濁併せ呑む
三浦作品には、様々な人物が出てきます。
というか、人生そのものですね。
どうしてそこまでそこ意地が悪いのか
このような人物も登場します。
例えば、
「生き残ったものは日頃の行いが良いからだ」
なんて、無神経にものを言う人がいる。
では、命を落とした人は行いが悪かった?
決してそんなことはない。
しかし、どうしてあんな良い人が亡くならなければならない?
と言う理不尽なことが人生では起こる訳です。
この十勝岳噴火然り、東日本大震災然りです。
しかし、主人公達は、そんな中でも「生きていこう」と懸命に努力して行きます。
もっと要領よく生きても良いのではないか?
耕作はそんな視点も持っています。
しかし、兄の一途な生き方にも理解を示し、行動を共にします。
災害地域においては、被害の程度は千差万別。
ほとんど被害に遭わなかった人もいれば、運悪く全てを失った人もいるし、自分一人が生き残った人もいる訳です。
自分だけが、なんでこんな目に遭わなければならないのだ。
主人公をはじめ、被災者たちは、そんな絶望感に何度も何度も襲われたことでしょう。
そんな中で、
「なんで、あいつはその程度の被害で済んだんだ」
と他人を妬んだり、復興支援金に関することでも、人の死を見舞金に換算する「人間の持つ嫌らしさ」も見える訳です。
しかし、それは、登場人物その人の心の醜さではなく、人間誰もが持っている醜さ、嫌らしさをその人物が代弁しているのではないか。
本作品でも、亡くなった拓一・耕作の祖父市三郎は「世間では悪い人」と言われる人であっても、決して一面的に貶したりはしません。
貧しい小作農ではありましたが、どんな人に対しても受け入れる度量があったのです。
そんな人物が亡くなる一方で、巧みに金儲けをしながらさらに生き延びでいく人物もいる。
世の中はどうしてこんなにも不平等なのか。
当時の時代背景では、仕切りに
小作農の生活の貧しさへの恨みつらみも台詞としてできてきます。
しかし、それでも主人公達は、苦しい生活の中にも人として大切なものを根っこに持ちながら健気に生きていく。
善も悪も清濁併せ呑む世界観に、自分の魂も共鳴している。
これが三浦作品にはまってしまう理由なのかもしれません。
終わりに
なんか読了した後に書いた記事みたいですが、まだ、「続・泥流地帯」は2割しか読んでません。
それでも、書きたい!伝えたい!と私の心の奥から湧き出る思いが強く、未読了ながらの感想をご容赦くださいませ。
☘️最後まで読んでいただきありがとうございました。
☘️素敵なご縁に感謝です。
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