【連載】エピグラフ旅日記 第5回|藤本なほ子
エピグラフ旅日記(9月)
9月某日(6)つづき──アントニオ・タブッキの3つのエピグラフ
「まずはおもな文庫や叢書を、エピグラフがないか一冊ずつ確認していく」という方針の下、壁際のスペイン文学とフランス文学の棚をうろうろしたのち、イタリア文学の棚へ。
(ちなみに、今回の調査ではできるだけ網羅的なデータをつくりたいと考えており、主だった著者については、エピグラフがあった作品だけでなく「エピグラフがなかった作品」の情報も記録している。たとえばこの日のノートを見返すと、以下の著者について、エピグラフがなかった作品のタイトルがメモしてある。
ポール・ヴァレリー、マルグリット・デュラス、ジャン・コクトー、ジョルジュ・バタイユ、ジャン・グルニエ、ロジェ・グルニエ、ロラン・バルト、モーリス・ブランショ、マルセル・プルースト、アンドレ・ブルトン、ガブリエル・ガルシア=マルケス、ホルへ・ルイス・ボルヘス、サルヴァトーレ・クァジーモド、ジュゼッペ・ウンガレッティ、アントニオ・タブッキ、イタロ・カルヴィーノ、ウンベルト・エーコ、ダンテ・アリギエーリ、ウンベルト・サバ、須賀敦子、トルクァート・タッソ
さまざまな要因が影響しているのだと思うけれど(とくに「おもな文庫や叢書のみ」という条件が)……見事に男性ばかり! 女性はマルグリット・デュラスと須賀敦子の二人だけだ。エピグラフのリストも男性の著者が圧倒的に多い。この偏りに気づくたび、情けないような腹立たしいような気持ちになり、気になって、「男性」以外の作品ももっと見たい、調べたい……と焦りと衝動に駆られる。地域の偏りも同様である。三つ四つの図書館の開架の棚をながめるだけでは、見えてこない作品が膨大にある)
アントニオ・タブッキの著作が何冊か並んでいる。少しぐらいいいだろう……と、基本方針をさっそく破り、単行本も含めすべてを積み上げて閲覧席に運ぶ。
『夢のなかの夢』(★1)をひらく。最初の扉をめくり、裏のページの下部に置かれたイタリア語の原題と英語の書誌情報をながめ、次のページの中央にぽつんと置かれた「目次」という小さな文字をながめ、めくり、見開きの目次をながめる。めくり、左のページに少し大きめに印刷されたタイトルの文字「夢のなかの夢」をながめ、献辞をながめ(「わが娘テレーザに──/きみが贈ってくれた/手帖から/この書物は生まれた」)、もうひとつめくるとエピグラフがあった。
次へとめくると、「覚え書」と題された短文が、左ページから右ページへと一枚の紙の裏表に印刷されるかたちで、本文の前に置かれている。
つまり、タブッキは、(……「つまり」などという言葉で「要約」することは、タブッキが織りだす言葉の時空の茫漠としたふくらみを、片手でぐしゃっとつぶし、丸めてしまうような野暮で野蛮な行為だ、と思いながら書いている)「自分の愛する芸術家たち」が見た夢の内容を知りたいという思いが昂じて、とうとう、その夢の「身代わりの物語」を「想像力でつくりあげ」、この書物のなかに自分で書いてしまった……というのだ。
さらに、「覚え書」の前に置かれたエピグラフによって、単に「知りたい」というだけでなく、「他人の夢を夢に見たい」という欲望が暗示され、読者の意識の見えないところにすべりこまされている。これらの仕掛けにより、きたるべき読書体験にもう一つのレイヤーが、──読み手たる私は、書き手の欲望に導かれて、これから「他人の夢を夢見る」らしい、「読む」ことにより「夢見る」ことになるらしい、という、いわば読み手の体の構えに手を添えてそっと方向づけるようなレイヤーが、ひそかに付け加えられている。
それに加えて、「恋人の胡桃の木の下に立ち、八月の新月がのぼるときに、神々が微笑んでくれたなら──」と、もしこんな条件が揃ったらその欲望が叶うだろうという仮定の情景までもが、エピグラフに乗っかるかたちで添えられている。
こうして、幾つかの次元の折り重なったぼんやりした奥行きが、これから始まる本文の語りの舞台として準備される。……そう、この「ほのめかし」感、「次元の折り重なり」感、「奥行き」感が、私にとってのタブッキの作品の魅力の一つである。書かれた言葉(物語)の奥に届きたい、その奥の「意味」を知りたいと思い、手をのばして押してみるのだが、吊り下がった大きなカーテンの面を押すように、こちら側の空間がふわっと奥まるだけで、布の裏側には手はけっして達しない。でも、向こう側の空間はあるらしいとは伝わってくる。そのような不全感が、どこかくぐもったような心地よさとともに、いつまでも解消されずに残る、その感じ。
(ちなみに、この「覚え書」の次に現れる一つめの短章は「建築家にして飛行家、ダイダロスの夢」と題され、この連載の第3回でも言及した伝説の工匠ダイダロスが登場する。この「ダイダロスの夢」もまた、どこからどこまでが夢なのかわからなくなるような「次元の折り重なり」感を味わえる掌編なので、未読で関心のある方はぜひ手にとってみていただきたい。……さらに付け加えれば、本書の最後で、タブッキはダイダロスを「建築家にして最初の飛行家。私たちの夢かもしれない。」と紹介している。★2)
タブッキの作品にはエピグラフが結構多いのだが、作品の「ほのめかし」「次元の折り重なり」「奥行き」を深める道具立てとして、使い方がとても上手いと感じる。異界をつなぐ機能をもつエピグラフは、そのような使途にきっとうってつけなのだ。たとえば『遠い水平線』(★3)という中編作品のエピグラフ。
『遠い水平線』は、死体置き場の番人のスピーノが、ある夜運び込まれた身元不明の死体に、自らの姿を見いだすかのように引きつけられ、その正体を探ってあちこちを訪ねさまよう物語。物語の進行につれて、死体の青年(カルロ・ノーボディ=nobodyという名)は「確かに生きていた(らしい)」という具体的な痕跡をちらちらと示していくのだが、それを追うスピーノのほうは、逆に不確かなほうへ、「無い」ほうの空間へと引き寄せられていくようである。
本文の結末の後に、「余白につけた註」という短文が置かれ、「アントニオ・タブッキ」と署名が付されている。私には、末尾に置かれたこの短文が、冒頭に置かれたジャンケレヴィッチの引用(★4)のエピグラフと対をなして、作品の空間のまさに余白からその外へと染み出し、意味の余韻をつくっているようにも感じられる。
遠い水平線によって分かたれる天と海は、エピグラフに述べられている《存在している》と《存在していない》の分かたれに重ねて読むことができる。すると、これはごくごく勝手な一つの解釈にすぎないけれど、「水平線」という境界線のなかの空間──線は空間ではないはずなので、このような言い方は矛盾しているが、あえて──を、自らが分かつもの(天と海、あるいは生と死、在と無)とは「根本的に異質な」「《第三類》に属して」いる場所だというふうに見ることもできる。物語の最後で、主人公スピーノはその場所へ移行したのではないか。……とも感じられるのだが、作品のなかに書かれた言葉からは、確かなことは何もわからない。
このようなタブッキの「ほのめかし」「次元の折り重なり」「奥行き」の表れた作品として、『逆さまゲーム』という短編集に収録された「土曜日の午後」という小品が、私はいちばん好きだった。見直してみたところ、この『逆さまゲーム』にもエピグラフがつけられていた。いままで隠されていたページを見つけたようでうれしい(単に忘れていた、見たまま記憶から逃していたというだけなのだけれど)。
エピグラフ旅日記(10月)
10月某日(1)──プリーモ・レーヴィ『休戦』、ボリース・パステルナーク『晴れよう時』
イタリア文学の棚からロシア・ソビエト文学の棚を見ていく。私の手の移動距離は棚3段分ほど(3メートル強ぐらい)なのだが、大陸横断の旅であり、時代を行きつ戻りつする旅でもあった。
プリーモ・レーヴィ『休戦』(★7)。岩波文庫の多くは、表紙に概要の説明が印刷されている。この本の表紙には「……絶滅収容所を奇跡的に生き延びた主人公=作者レーヴィ(1919-87)が、故郷イタリア・トリーノに生還するまでの約9カ月の旅の記録」とある。本をひらくと、目次の次の見開きのページに地図があり、故郷までの移送の道のりが示されている。ポーランドのアウシュヴィッツ(オシフィエンチム)を起点に、町を示す白丸をつないで、黒い線が東へのびていく。ウクライナへ、ベラルーシへと、イタリアへの方向とは真逆のほうへ線は進み、ベラルーシの首都ミンスク近くの地点からまっすぐ南下してルーマニアに入り、ハンガリー、チェコスロヴァキア(現在のスロヴァキア)、オーストリア、ドイツ(!)へと西進し、またオーストリア、そしてイタリアに入ってトリーノで線は終わる。大変な遠回りをしての帰郷である。
地図のページをめくった次の左側のページに、エピグラフが置かれていた。
「フスターヴァチ」が何を意味しているのか、わからない。わかるのはそれが筆者にとって「外国語の命令」であり、「朝の命令」だということだけだ。また、「いま家を探し出し、腹は満たされ……」というくだりと、「一九四六年一月十一日」という日付から、恐らくこれはトリーノに帰還したのちの作者の言葉ではないか、と想像をする。
本の最後のほうをひらくと、本文の終わりに「フスターヴァチ」の語があり、訳注がつけられていて、「(「フスターヴァチ」とはポーランド語で「起床」の意味)」とあった。
本文を読んでみると、偶然にも、この本の冒頭のエピグラフと末尾の文章もまた、夢と境界線をめぐるものだとわかる。以下は末尾のくだりだ。
冒頭のエピグラフと末尾のこの文章は対になっている。エピグラフでは「残忍な夜」に夢を見ている。その夢の中で「家に帰り、食事をして、起きた出来事を語っている」のだが、そこに朝の命令が、「フスターヴァチ」が響く。これは「ポーランド語」だから、きっとアウシュヴィッツの収容所で響いていた声だ。
そして末尾の文章では、帰還したトリーノの家で夢を見ている。夢の中で、「家族や友人と食卓についていたり、仕事をしていたり、緑の野原にいる」。穏やかに、くつろいでいる。しかし、心のどこかにかすかだが深い不安を感じていて、夢が進むにつれてその不安は強く明確になり、とうとう周囲の事物はすべて消え失せ、「私は濁った灰色の無の中にただ一人でいる」。つまり作者はラーゲルにいる。ラーゲル(ラーゲリlager)とはロシア語で収容所のことだ。「私はこれが何を意味するか分かる。いつも知っていたことが分かる」「ラーゲル以外は何ものも真実ではないのだ。それ以外のものは短い休暇、錯覚、夢でしかない」。穏やかでくつろいだ日常の時空間は、夢の中の夢だった。絶滅収容所で、「冒瀆の印は私たちの中に永遠に刻まれ、それに立ち会ったものたちの記憶に、それが起きた場所に、これから語られる物語の中にずっと残るはずだった」(★9)。そのような印を刻み込まれた「私」は、夢の中で穏やかな夢を見ていても、やがては「短くて、静かな、ただ一つの言葉」、「アウシュヴィッツの朝を告げる命令の言葉」に呼ばれる。平和の夢は終わり、「私」は境界線の手前へ、ラーゲルの時空間へと引き戻されてしまう。
*
トリーノから東に戻って……というわけではないけれど、イタリア文学の棚からロシア・ソビエト文学の棚に入る。『パステルナーク詩集』(★10)。編訳者は工藤正広、「双書・20世紀の詩人」の1冊(番号は14)で、小沢書店より1994年の刊行。奥付の裏に、この叢書の1〜13のラインナップが掲載されている。これをながめるだけで、しばしの時間を過ごしてしまう。
巻末、奥付の前に置かれた「ボリース・パステルナーク年譜」によると、パステルナークはユダヤ系の両親から1890年にモスクワに生まれ、1960年に死去。長編小説『ドクトル・ジバゴ』の作者として有名だが、1955年、65歳の時に完成したこの作品はソ連では出版できず、1957年にイタリアで刊行。翌1958年にはノーベル文学賞を受賞するが、パステルナークは「作家同盟から除名され」、受賞を辞退している。遡って1936年(46歳)の項には「知識人作家群の逮捕虐殺開始」とあり、その後、周りの作家の「逮捕粛清」「自殺」の記述が続く。1949年(59歳)以降は恋人のオリガ・イヴィンスカヤが「パステルナークの愛人という逮捕理由」で繰り返し逮捕され、ラーゲリに送られている。
この詩集に収められた第七詩集『晴れようとき』は、死の前年の1959年、69歳の時に成立(★11)。年譜には「詩人の手で詩稿整理済。未刊」とある。巻頭の目次に戻り、内容を確認すると、この本には『晴れようとき』の詩篇のほか、詩論・エッセイと、オーシップ・マンデリシュタームおよびマリーナ・ツヴェターエワによる詩人論・解説が収録されている。
『晴れようとき』の巻頭に、エピグラフが置かれている。
とりあえず解説を見てみるが、エピグラフの読解や出典などについての記述はない。
本篇に戻り、詩を少し読んでみる。
プルーストを引用したエピグラフの、墓に刻まれた文字の輪郭がぼんやりしていき、視界が過去へと遠ざかっていくような印象とは対照的に、詩集と同じタイトルのこの詩は描かれる事物のすべてがくっきりして、色鮮やかだ。一行一行、言葉が進むにつれ、ますます鮮明な風景が切りひらかれていくようである。厚く濃く白い雲、晴れやかに青い空、透明な明るい影をなす葉むらの緑。きっと詩人が眼前の、あるいはかつて見た、生きた自然を描写した詩なのだろうと思うのだけれど、あまりにも鮮明なので、むしろ非現実の世界の描写であるようにも感じられてくる。エピグラフが過去へのベクトルを示唆するものだとすると、この詩行が見せてくれているのは未来の、あるいは時をもたない、詩人がこれから境界線を越えて向かおうとする場所であるかのように。
もう一度エピグラフに戻る。山本貴光さんの連載第1回にあるとおり、「エピグラフ」という言葉には「墓などに刻まれる碑銘」の意味もあるので、共同墓地のイメージのこのエピグラフは本書にとって魅力的である。「墓」にまつわるエピグラフを集めるというのも面白そう(この数日後、ポーランドの作家アンジェイェフスキの『灰とダイヤモンド』★13にも、墓地にまつわるエピグラフを発見したのだった)。「墓にまつわるエピグラフ特集」を打つためにも、プルーストのこの言葉の出典は調べておきたい。あとで、まずはインターネットで調べてみよう。もしも当たりがつかなければ、『失われた時を求めて』を全ページめくってみたりするのだろうか私は。エピグラフの出典を求めて。