【連載】異界をつなぐエピグラフ 第5回|人文界のスターたちをお迎えした強力な弁護陣、あるいは護符型エピグラフについて|山本貴光
第5回|人文界のスターたちをお迎えした強力な弁護陣、あるいは護符型エピグラフについて
1.どこへ連れていかれるのか
世にヘンテコな本は数あれど、18世紀英国のお坊さん、ロレンス・スターン(1713-1768)が書き継いだ『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』(全9巻、1759-1767)ほどヘンテコな本となると、そうそうお目にかかれるものではない(★2)。
などと申せば、「またまた大袈裟なんだから」とおっしゃる向きもあるだろう。私自身はどちらかといえば物事を大袈裟に言うのを好まない質なれど、『トリストラム・シャンディ』ばかりは一読三嘆、というか一読四嘆どころか五嘆、六嘆、いやn嘆(ただしnは3以上の整数とする)の書でありますぞと、機会があると、つい普段よりちょっぴり声を大きめにして言ってしまいたくなるほどにはヘンテコな本なんである。
この小説を日本に紹介した夏目漱石(1867-1916)は、やはり同書を楽しんだうちの一人で、「トリストラム、シヤンデー」(1897)という文章を書いてこんなふうに紹介している。
実際、読んでみると分かるように、話は脱線につぐ脱線でどこへ向かうのか皆目検討もつかず、それどころか肝心のトリストラム・シャンディもなかなか登場してこない。いや、当人が語り手を務めているので、冒頭から登場しているといえばしているものの、その語りは自分の誕生以前から始まっており、なかなかこの世に生まれてこないのだった。
そもそも第1巻の冒頭は、トリストラムが生まれるきっかけとなる父母の夜の営み、要するにベッドシーンで幕を開ける。その最中に生じたちょっとしたアクシデントによって、本当ならもっとちがった姿や性質をもった人間として生まれていたかもしれないのに、こんな人間として生まれることになり、まったくなんということだ、とボヤくのは当のトリストラムである。
思えばこの小説は、誕生というか、その手前の受精、あるいは性交という、人がこの世に生じるきっかけとなる出来事のまさにそのしょっぱなから、手違いで調子が狂うという話なのだった。いや、もうちょっと言うなら、むしろ人生とはそうした手違いや偶然の積み重ねでできているという次第を、全編を使って表していると言ったほうがよいかもしれない。
そんな本だけに、読むほうも起承転結が整っていたり、伏線がきっちり回収されるといったよく出来たストーリーを期待するのはハナからやめにして、この語りによっていったいどこへ連れられていってしまうのか、というそのあてどのない状況を楽しむつもりでいるくらいでちょうどよい。
2.聖職者の面汚し!
同書のヘンテコな点をもうちょっとご紹介しておこう。
ヘンテコ具合は内容に留まらない。ページが真っ黒に塗りつぶされていたり、白いままだったり、マーブル模様だったり、奇妙な曲線が並ぶページがあったりと、文字以外の要素もいろいろなのだ。
それに、どこまで本気かは分からないものの、「以上申上げたことのすべては、今ちょうど木版師の手にかかっていて、いずれは第二十巻の巻末に、ほかにも数多くの図面や附録類とともにお添えするつもりの地図を見ていただけば、もっと正確に図面に照らしてご納得願えるだろうということです」(★4)という具合で、どうやら地図までつけるつもりだったらしい。手段を選ばず本というかたちでできることは端からやっちゃおう、という意気込みのようなものが感じられる。
また、きわどい話を伏せ字にして思わせぶりにしてみたり(隠されるとかえって想像が羽ばたいたりして)、見せ消ちにしてみたり、といったタイポグラフィの遊びは序の口である。加えて、普通は巻頭に置かれる「献辞」が作中で唐突に現れたかと思えば(第1巻第8章、上巻p.48)、「作者自序」にいたっては第3巻も第20章になってから書かれ、そこには先行して公刊した第1・2巻への批評家のコメントへの応酬まで入っているという始末(第3巻第20章、上巻p. 303)で、構成も破天荒。
しかも語り手が読者に絡むこと絡むこと。あちらこちらで読者に呼びかけるだけならまだしも、ここからは内密な話をするので「扉をしめて下さい」といってみたり(第1巻第4章、上巻p.40)、ここで本を置いて半日考えてみてくださいと命じてみたり(第1巻第10章、上巻p.54)、どうして前章をうわの空で読んでいたんですか、罰として前の章を読み直してください(第1巻第20章、上巻pp.110-111)と責めてみたりと忙しい。読者も本のほうへと引っ張り込まれ、巻き込まれていく仕掛けなのである。
スターンは、どうもフランソワ・ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル物語』やセルバンテスの『ドン・キホーテ』など、これまた言葉を選ばずに言えばハチャメチャな作品を愛読していたようで、こうした前例におおいに刺激を受けたに違いない。なにしろ当のご本人が語り手の口を借りて「この散漫滅裂な作品」(★5)と言っているくらいだ。
そんな遊びや創意に満ちた『トリストラム・シャンディ』について、ハイパーテキストである、メタフィクションであるとの評価があるのも頷ける。
ところで、同書の最初の2巻は、1759年に刊行されると大きな評判を呼んだようだが、著者が聖職者だと分かるや「聖職者の面汚し!」という非難の声もあがったというから面白い。
そうした評価を確認したわけではないので具体的にはどこにケチがついたのかは分からないものの、全編のあちこちに卑猥な場面やほのめかしがあるのはけしからんということなのかもしれない(★6)。
ともあれ、同書は賛否両論の評価を受けながら、なんやかんやと言われつつ、刊行からおよそ260年を経たいまも読者を楽しませているわけである。
3.意見こそ、人を動かすものぞ
さて、このまま『トリストラム・シャンディ』の内容をご案内したいところだけれど、そろそろ本題に進むことにしよう。そう、ここでのテーマはもちろんエピグラフである。
まず、第1巻の扉ページに最初のエピグラフが見える。
これは古代ギリシア語で、朱牟田訳をお借りすれば、こう書いてある。
エピクテータスとは、エピクテトスともいい、古代ローマ時代に活動した哲学者の名前。奴隷の子として生まれ、後に解放されて哲学者となった人で、残念ながらというべきか、彼自身が書いたものは残っていない。弟子のアッリアノスという人が、師の言葉を書き留めた本を残していて、日本語訳では『人生談義』と訳されている(★8)。孔子の言動を弟子たちが書いて編んだ『論語』と似て、いろいろな人からの問いかけにエピクテトス先生がどう答えたかという事例がたくさん記されている面白い本だ。最近、國方栄二訳が岩波文庫から新たに出て、手にとりやすくなっている。
ところで、このエピグラフはどういう意味だろうか。これは私の場合だけれど、「行為に関する意見こそ、人を動かす」というのが、ちょっと飲み込みづらく感じるのだった。
これを検討するには、スターンが掲げている古代ギリシア語の原文を見直してみるとよい。先ほど触れた國方訳は、原文の流れに即して訳されているので参考にさせていただこう。
ご覧のように、朱牟田訳で「行為」と記されていた語が、國方訳では「事柄」と訳されている(★10)。これなら腑に落ちる。
また、続きをあわせて読むとさらにはっきりする。國方訳はこう続く。
「死」と呼ばれる出来事そのものは恐ろしくない。あるいは、恐ろしいものかどうかは分からない。ただ、「死とは恐ろしいものだ」という思いによって、人は不安になるというわけである。
もうちょっと別の例を考えてみよう。こんなのはどうだろう。
「締切」そのものはなんら恐るべきものではない。むしろ「締切は恐ろしいものだ」という思いによって人は不安になるのだ。締切とは、「いついつまでに、これこれの文章を何文字を目処に書いて送ってくださいね」という取り決めのこと。言ってしまえば人と人とのあいだの約束に過ぎない。それを恐ろしいと思う人がいるとしたら、その人の心のなかにある締切に対する思いがそうさせている、というわけだ。なんだかつらくなってきた……。
気を取り直せば、エピクテトス先生は、なんらかの対象と、その対象について自分が抱いている思い(意見・信念)とを区別せよと述べているのだった。
4.頭のなかを引っかき回す
こんな具合に、エピグラフに選ばれたエピクテトスの文の元の文脈を踏まえてみると、『トリストラム・シャンディ』の巻頭に置かれる言葉としては、次のように訳してみてもよいかもしれない。
「人びとを引っかき回すのは、事柄そのものではなく、事柄についての意見なのだ」
朱牟田訳に倣って「意見」としてみた。これは『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』という原題に見える「意見(opinion)」に合わせてのこと(★12)。また、「引っかき回す」としたのは、「悩ませる」とか「心を乱す」とか「揺さぶる」といった古代ギリシア語の辞書に載っている意味をもとに工夫してのこと。
そういえば、この本には、トリストラムが生まれる前の出来事がたくさん書かれており、そこでは当人が不在のまま、父や叔父をはじめとする人物たちめいめいの生活と「意見」が飛び交っている。あるいは全編にわたってあちこちで引用されるさまざまな本の著者たちの「意見」も同様である。あれ、そうすると、タイトルに反してトリストラム本人の「意見」はあまり書かれていないの? という気もしてくるがそこはそれ。
そもそも本書の語り手は、先ほど触れたように冒頭から「今さらかなわぬことながら、私の父か母かどちらかが、と申すよりもこの場合は両方とも等しくそういう義務があったはずですから、なろうことなら父と母の双方が、この私というものをしこむときに、もっと自分たちのしていることに気を配ってくれたらなあ」と意見を述べることから始めている(★13)。というよりも、この本全体がトリストラムによる語りであり、なにを選んでどう表すかということ自体がすでに彼の意見の開陳なのである(★14)。
考えてみれば、エピグラフもまた、誰かが書いた「意見」を借りて、著者の言いたいことを代弁してもらっているようなものだ。
などと、ぐるぐる考えているうちに、なんだかスターンが「読者のみなさん、この『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』でもって、あなたの頭のなかをかき回しますよ!」と宣言しているような気がしてきた。
5.強力な弁護陣を召喚
『トリストラム・シャンディ』全9巻には、他にもいくつかのエピグラフがある。最後にまとめてご紹介しよう。「そんな雑な!」と思うかもしれないが、私の見るところではエピグラフのタイプとしては一種類なのだ。
「陽気」「剽軽」「軽薄」「逸脱」「道化」といった『トリストラム・シャンディ』の形容にぴったりの言葉が並ぶ。これらのエピグラフで言われていることをまとめてしまえば、「やり過ぎに見えても大目に見てね(てへぺろ)」という感じだろうか。最初に出した第1・2巻が巻き起こした毀誉褒貶を受けて、だからといって手加減することなく我が道を突き進みながらも、先にひとことエクスキューズを入れておく、といったところかもしれない。
その際、ソールズベリのジョン、ホラティウス、エラスムス、小プリニウスという人文界のスターたちを召喚して、本の護り手として巻頭に置いているのは、なかなか周到である。よくぞこれら錚々たる作家たちの書物から、こうも都合のよい言葉を探し出してきたものだ。と、変なところに感心してしまう。
それはさておき、そんなエピグラフの使い方をする人がスターンの他にどのくらいあるかは分からないけれど、これを「護符型エピグラフ」と名づけておこう。スターたちの言葉を書き付けたお札を貼っておき、自分に害をなすかもしれないものたちから護るというイメージである。
とはいえ、「大目に見てね」とちょっと詫びる風を見せながらも悪ふざけは止めないのだから、せっかくのスターたちの言葉も、かえって挑発になっている気がしなくもない。はてさて、当時の人たちはこのエピグラフをどう読んだものだろう。