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【科学者#024】女性人気が高かったイケメンの"講演の名手"【ハンフリー・デービー】
科学を広めるには、一般の人にも分かりやすく伝える技術が必要になってきます。
今回は科学知識を普及するため、詩的な表現を織り交ぜた巧みな話術で女性たちの心をつかんだ”講演の名手”であるハンフリー・デービーについてです。
ハンフリー・デービー
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名前:ハンフリー・デービー(Humphry Davy)
出身:イギリス
職業:化学者・発明家
生誕:1778年12月17日
没年:1829年5月29日(50歳)
業績
金属の発見
デービーは、アルカリ金属やアルカリ土類金属をいくつか発見しました。
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1806年に『結合の電気化学的仮説』を発表します。
デービーはボルタ電池を使って電気分解をして、様々な物質を発見しています。
1807年には水酸化カリウムの電気分解でカリウムを発見し、1808年には石灰と酸化水銀の混合物を電気分解してカルシウムを発見しています。
この他にも、電気分解をすることでナトリウム、マグネシウム、ストロンチウム、バリウムの合計6つを発見しています。
さらに、他の科学者と同時期にヨウ素とホウ素を発見しているので、デービーが発見した元素は合計で8つになります。
これは、ひとりの人間が発見した元素としては最多記録になります。
生涯について
幼少期
デービーの父親は木彫り職人で、利益よりも芸術性を求める人でした。
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デービーは長男で、下には弟1人と妹が3人いました。
母親の両親はともに熱病で亡くなっており、母親は外科医のジョン・トンキンの養子になっています。
そんなトンキンは、幼いデービーの聡明さを見抜き、私立学校に転校させます。
さらに幼い頃のデービーは、近所の馬具工を営んでいた人が、ボルタ電池やライデン瓶をつくっていて、デービーにも科学の初歩を教えてくれていました。
そのおかげもあり、デービーは科学実験を好むようになります。
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1794年に父親が亡くなると、義理の祖父であるトンキンはデービーを外科医に弟子入り(年季奉公)させます。
この時期に化学を学んだり、トンキンの自宅の屋根裏部屋で科学実験を行っていました。
講演の名手
ある日、王立協会のフェローだったデービス・ギルバートとデービーが偶然出会い、デービーはギルバートの自宅に招待されます。
その時に、医学校で化学講師をしていたエドワーズ博士と出会い、デービーに実験室の使用を許可してくれます。
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この縁で、1798年10月2日からトーマス・ベドーズ(1760-1808)の気体研究所で働くようになります。
そして、この研究所に笑気ガス(亜酸化窒素)を定期的に吸引しに来る
スコットランドの発明家のジェームズ・ワット(1736-1819)や
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イギリスのロマン派詩人のサミュエル・テイラー・コールリッジ(1772-1834や、
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イギリスのロマン派詩人のロバート・サウジー(1774ー1843)と友人になります。
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ちなみに笑気ガスとは、1772年にイギリスの化学者ジョゼフ・プリ―ストリーが発見した亜酸化窒素のことを言います。
笑気ガスを吸うと軽く酔ったような感じになり、当時はパーティーなどを盛り上げるために使用していました。
実は、デービー自身も笑気ガスの中毒になっています。
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この笑気ガスは世界でも窒息や死亡事故が報告されており、現在日本では2016年2月から医薬品医療機器法の指定薬物となっており、医療用などの目的以外で販売や所持、使用が禁止されています。
1801年には王立研究所の化学講演助手兼実験主任になり、研究所内に部屋があたえられ、燃料と給料が支給されます。
王立研究所では、科学知識の普及を目的に一般市民を対象とした公開講座がありました。
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デービーの講演は特に人気で、詩的な表現を織りまぜた巧みな話術で、素人にも分かりやすく化学実験を行っていました。
さらに、デービーは美男子だったので特に女性からの人気が高かったようです。
1802年7月の23歳のときには正講演者に昇格し、1803年11月には王立協会のフェローに選ばれます。
1810年には、スウェーデン王立科学アカデミー外国人会員に選出されます。
デービーとファラデー
ある日デービーは三塩化窒素の実験中の事故で視力が低下します。
さらに同じ時期に、助手と喧嘩したことで助手が辞めてしまい、その代わりにマイケル・ファラデー(1791-1867)を雇うことになります。
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その後1812年にはデービーはナイトに叙せられたり、裕福な未亡人と結婚します。
1813年10月には、ヨーロッパ大陸に新婚旅行を兼ねた科学ツアーへ旅立ちます。
その時、実験助手としてファラデーを一緒に連れていきます。
1815年、イングランドに戻り炭鉱で使うランプの実験を始め、デービー灯を発明します。
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1818年にはデービー灯の発明の功績が認められ、準男爵の爵位を授けられます。
さらに、1820年の42歳のときに王立協会会長に就任します。
そして、1823年デービーの助手だったファラデーが『塩素ガスの液化』に成功します。
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この時デービーはファラデーの論文原稿に無断で『ファラデーに実験手順を指示したのは自分であり、結果として塩素の液化を予測していた』という一文を書き加え、あたかもデービーの指示に従って、ファラデーが塩素ガスの液化の実験を成功したかのように見せようとしました。
翌年の1824年ファラデーは王立協会会員に選出されます。
しかし、賛成か反対かの投票のときに1票だけデービーの反対票がありました。
これらは、デービーがファラデーのことをただの助手としてしか思っておらず、嫉妬心によるものだと言われています。
デービーという科学者
1826年健康上の理由により、デービーは王立協会の会長職を退きます。
そして、1829年にスイスで心臓病により亡くなってしまいます。
その後デービーの研究は、嫉妬していたファラデーに引き継がれます。
はじめは木彫り職人の子どして生まれ、決して裕福ではなかったデービーですが、化学実験への熱意と詩的な表現を使い講演の名手と呼ばれ、準男爵の地位まで手に入れました。
デービーはファラデーを助手に雇い、その才能を育てたことも業績のひとつだと言えますが、その後ファラデーの才能に嫉妬してしまいます。
そんな科学知識を普及するため、詩的な表現を織り交ぜた巧みな話術で女性たちの心をつかんだ”講演の名手”であるハンフリー・デービを知ってもらえたのなら嬉しく思います。