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【科学者#029】オイラーが惚れこみ、多くの国が欲しがった頭脳【ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ】
18世紀に活躍した人類史上最多の論文を残した科学者として、第19回ではレオンハルト・オイラーを紹介しました
今回はそんなオイラーと並んで18世紀最大の数学者と言われている、オイラーが惚れこみ、多くの国が欲しがった頭脳を持ったジョゼフ=ルイ・ラグランジュについてです。
ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ
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名前:ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ(Joseph-Louis Lagrange)
出身:サルデーニャ王国(現在のイタリア)
職業:数学者・天文学者
生誕:1736年1月25日
没年:1813年4月10日(77歳)
業績について
ラグランジュは様々な業績を残しており、特に微積分を物理学に応用した『解析力学』(ラグランジュ力学)をつくり出しました。
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これにより、ニュートン力学の物体の運動を簡易化し、直感的に扱えるようにしました。(一般化座標とその微分を基本変数として再定式化)
そして、このことで電磁気学や相対性理論にも応用することができるようになりました。
ラグランジュは、1788年『解析力学』を出版するのですが、これは18世紀末の古典的著作とされています。
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さらにラグランジュは、パリ科学アカデミーの賞を何度も受賞しています。
1772年には、オイラーと共に「3体問題に関する研究」
1774年には、「月の運動に関する研究」
1780年には、「惑星による彗星の軌道の摂動に関する研究」
について受賞しています。
研究分野については、天文学、太陽系の安定性、力学、動力学、流体力学、確率、微積分の基礎、数論など多岐にわたって研究していました。
生涯について
ラグランジュの父親はトリノの財務官で、母親は医者の娘でした
そしてラグランジュは、11人の子供の長男として誕生します。
ちなみに、11人いた子供のうち大人になることができたのはたった2人だけでした。
ラグランジュはトリノ大学に進むのですが、その時は古典ラテン語が好きで、最初は数学に熱心ではありませんでした。
しかし、1693年に第17回で紹介したエドモンド・ハレーが書いた「光学における代数の使用に関する研究」について読み、数学への関心を持ち始めます。
そのうえ物理学にも興味を持ち、さらに数学に専念するようになりまが、ラグランジュは誰かに教わらず、ほぼ独学で数学の知識を身につけていきます。
1755年9月28日の19歳のときに、トリノの王立学校の数学教授職に任命されます。
この時には、ラグランジュは第19回で紹介したレオンハルト・オイラーを尊敬しており、論文を出版する際自分の論文をオイラーにおくりました。
オイラーはこのラグランジュの論文に感銘をうけ、フランスの数学者であるピエール=ルイ・モロー・ド・モーペルテュイ(1698-1759)に相談し、ラグランジュをプロイセンに引き込もうとします。
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オイラーはプロイセンでの役職は、トリノでの役職よりもかなり権威があるものになるとラグランジュに伝えます。
しかし、ラグランジュは地位には全く興味がなく、数学に専念できるようにしたかったので、この誘いを丁寧に断ります。
その後オイラーはベルリンのアカデミーにラグランジュを推薦し、1756年9月2日に正式に選出されます。
1757年には、トリノの科学協会の創設メンバーになります。
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1766年、フランスの数学者ジャン・ル・ロン・ダランベール(1717-1783)がラグランジュにベルリンのアカデミーでの職を提供するように手配するのですが、これについても断ります。
しかしダランベールはあきらめずに何度か職を勧め、最終的にはラグランジュは受け入れることになります。
そして、1766年11月6日にベルリンのアカデミーの数学部長として、オイラーの後を引き継ぎます。
一部はラグランジュのことを気に入らない人もいたのですが、おおむね温かく迎えられます。
イタリアのトリノでは時折ラグランジュの帰国が提案されるのですが、ベルリンで20年間働くことになります。
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1781年、イタリアに帰ってきてほしいため、ラグランジュにナポリのアカデミーの哲学部長のポストを提案するのですが断ります。
1786年にフリードリヒ2世が亡くなり、これを機にまたイタリアではラグランジュを引き戻そうとするのですが、1787年5月18日にラグランジュはパリ科学アカデミーの会員となります。
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1790年5月、度量衡を標準化する委員会のメンバーになり、メートル法に取り組み10進数を提唱します。
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1793年、フランス革命により様々な科学アカデミーが弾圧されるんですが、度量衡委員会だけは存続を許されます。
しかし、第28回で紹介したアントワーヌ・ラヴォアジエ、
フランスの数学者ジャン=シャルル・ド・ボルダ(1733-1799)、
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フランスの数学者、物理学者、天文学者ピエール=シモン・ラプラス(1749ー1827)、
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フランスの物理学者シャルル=オーギュスタン・ド・クーロン(1736ー1806)
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などが委員会から外され、これによりラグランジュが委員長になります。
1793年9月、敵国で生まれた外国人を逮捕し、全ての財産を没収することを命じる法律が可決します。
イタリア出身のラグランジュは、フランス出身のラヴォアジエが介入してくれたおかげで、ラグランジュは例外として認められます。
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しかし1794年5月8日、ラグランジュを逮捕から救ったラヴォアジエはギロチンで処刑されてしまいます。
その後ラグランジュは、1795年にエコール・ノルマル(フランス国立高等師範学校)が設立され、初等数学のコースを教えることになるのですが、イタリア訛りがあり、生徒の評判はあまりよくなかったようです。
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1808年、ラグランジュはナポレオンからレギオン オブ オナー(フランス最高勲章)を授与されます。
1813年4月3日には、ユニオン帝国勲章のグランクロワを授与されるのですが、この1週間後にラグランジュは亡くなってしまいます。
ラグランジュという科学者
実はラグランジュは、マリー・アントワネットの家庭教師も勤めていました。
自分を助けてくれたラヴォラジエも、そして自分の教え子だったマリー・アントワネットも、フランス革命によりギロチンで処刑されます。
ラグランジュは「なぜ私が残されたのか分からない」と、このことについて一生苦しみました。
数学をほぼ独学で会得し、そしてオイラーに見いだされたラグランジュは、イタリア、ドイツ、フランスを渡り歩き、その時の情勢に翻弄されつつも数々の業績を残しました。
今回は、オイラーが惚れこみ、多くの国が欲しがった頭脳を持ったジョゼフ=ルイ・ラグランジュについてでした。
この記事で、少しでもラグランジュに興味を持ってもらえると嬉しいです。