見出し画像

【科学者#015】少女に『天の不思議』を見せたげると約束して年の差婚をした科学者【ヨハネス・ヘヴェリウス】

少女が大人の男性に優しい言葉をかけられると、憧れて恋に落ちるということはあると思います。
そして大抵は、その幼い恋心は日が経つにつ入れて消えてしまいます。
しかし、大人になったら天の不思議を見せてあげると約束した人と少女は、数年後結ばれます。
今回は、そんな天の不思議を追い求め、素敵な妻と出会い、そしてその妻のおかげで重要な天体の観測結果を発表することができた科学者ヨハネス・ヘヴェリウスについてです。


ヨハネス・ヘヴェリウス

ヘヴェリウス

名前:ヨハネス・ヘヴェリウス(Johannes Hevelius)
出身:ポーランド
職業:天文学者
生誕:1611年1月28日
没年:1687年1月28日(76歳)


業績

月の地形学(月面図)

ヘヴェリウスは、1645年に月面図『セレノグラフィア』を発表しました。

ヘヴェリウスの実家は醸造所を経営しており、それ関係の仕事や市会議員に選出されたりと、何回か天文学から遠ざかることがあったのですが、天文観測を続けていきます。
そして、望遠鏡を使い月を観測し、月面図を作成しました。
このヘヴェリウスの月面図は、初期の代表的な月面図のひとつとして挙げられます。
現在でもヘヴェリウスが名付けた月の地名がいくつか使われています。


空気望遠鏡

ヘヴェリウスはレンズの研磨技術を身につけ、天体観測機器の製造を行います。
その中でも有名なものが空気望遠鏡です。

空気望遠鏡とは天体望遠鏡のひとつで、対物レンズを接眼レンズが大きく離れており、鏡筒がないものをいいます。
ヘヴェリウスは、1673年にレンズの直径8インチ(200mm)で、鏡筒にあたる部分の長さが150フィート(46m)になるものを作成し、公の場で天文観測を行いました。

しかし、大きすぎたために風や振動の影響を受けやすく、観測はあまり上手くはいかなかったみたいです。


生涯

ヘヴェリウスの父親は高い収益を持った醸造所を所有しており、ヘヴェリウスはそんな裕福な家庭に生まれました。

3人の兄弟と6人の姉妹がいたのですが、男の兄弟はすべて子供の頃に亡くなってしまいます。

7歳のときに、ポーランドのダンツィヒの学校に入学し、6年間そこで勉強します。

ヘヴェリウスは、この時期に天文学と数学に関心を持つのですが、そのきっかけとなるのが数学教師のピーター・クリューガーとの出会いになります。
クリューガーは個人レッスンをしてくれるようになり、ヘヴェリウスは天文学の全範囲について学んだり、天文機器のつくり方も教わりました。

1630年の19歳に、オランダのライデン大学で法律の勉強をするため船で出発します。
そして船に乗っている間に日食が起きるのですが、この出来事によってヘヴェリウスは天文学への興味が強くなります。

ちなみに、ライデン大学では法学と数学、光学、力学を勉強します。

そして、1631年からはイギリスのロンドンに約1年住んだ入り、1632年からはフランスに行きます。

この時期にヘヴェリウスは、フランスの物理学者・数学者・哲学者のピエール・ガッセンディ(1592-1655)や

ガッセンディ

フランスの神学者で、数学、物理学、哲学、音楽理論を研究したマラン・メルセンヌ(1588-1648)、

メルセンヌ

ドイツ出身のイエズス会司祭で、東洋研究、地質学、医学を研究したアタナシウス・キルヒャー(1602-1680)と出会い交流を持ちます。

キルヒャー

1634年には両親から戻るように言われダンツィヒに戻ります。

1635年に、裕福な家の娘であるカリーナと結婚します。
しかし、カリーナは天文学には全く関心がありませんでした。

1636年には、この時期には息子が1人しかいなかったので、父親の仕事を継ぐために醸造者ギルドに入会します。
これにより、一時期天文学への熱が冷めてしまいます。

また天文学に対して熱が戻るのは、1639年初頭に数学教師のクリューガーのもとを訪ねます。
クリューガーは、自分の死期が近づいているのを感じており、ヘヴェリウスに天文学をあきらめるなと伝えます。

さらに、1639年6月1日に日食を観察し、天文への熱を完全に取り戻します。
そして、妻のカリーナに醸造所に関連する管理作業の多くを引き継ぎ、全ての余暇を天文に費やします。

この時期に、天体観測機器の製造や、望遠鏡用のレンズの研磨、六分儀架台の製作などを行い、自宅に天文台も作ります。
加えて、ヨーロッパの主要なほとんどの天文学者と連絡を取り合います。

1641年に、ダンツィヒ市会議員の選出されたため、天文学からまた遠ざかります。
ちなみに、ヘヴェリウスは治安判事も務めます。

1949年には父親が亡くなり、醸造所の運営の責任を全て負うようになります。


人生の転機

1662年3月に妻カリーナが亡くなると、ヘヴェリウスに人生の転機が訪れます。

翌年の1663年に、父親が商人であるキャサリーナ・エリザベス・クープマン(1647年1月17日~1693年12月22日)と結婚します。

このキャサリーナは、子どもの頃に天文学に興味がありヘヴェリウスを訪ねたときに、ヘヴェリウスはその少女に「大人になったら”天の不思議”を見せてあげる」と約束します。

そして、1662年にヘヴェリウスの妻が亡くなります。

その後、その時にはさらに天文学に熱心になっていた15歳のエリザベスはヘヴェリウスに近づきます。
その後、1663年2月3日に16歳になったエリザベスと53歳のヘヴェリウスは結婚します。

ヘヴェリウスと前妻の間には子供はいなかったのですが、エリザベスとの間には4人の子どもができます。
しかし、息子は1歳で亡くなってしまいますが、他の3人の娘は無事に大人になり結婚しています。


ヘヴェリウスは1664年に、ロンドン王立協会に選出されます。

この時にも主要な天文学者と連絡を取り合っています。

イギリスの数学者のジョン・ウォリス(1616ー1703)、

ウォリス

イギリスの天文学者のジョン・フラムスティード(1646-1719)、

フラムスティード

イギリスの天文学者、地球物理学者、数学者、気象学者、物理学者のエドモンド・ハレー(1656-1742)、

ハレー

それと、フランスのピエール・ガッセンディなどと連絡を取り合います。


1679年9月26日ヘヴェリウス68歳のとき、夜に家と天文台がわざと誰かに燃やされてしまいます。
ヘヴェリウスは再建に勤め、1681年8月までに天文台を再建します。

1686年11月はじめに病気になり入院し、翌年の誕生日にヘヴェリウスは亡くなってしまいます。


ヘヴェリウスという科学者

ヘヴェリウスの死後、部分的に完成していた天体観測の結果を3冊の本として妻のエリザベスが出版します。

エリザベスはその後、1693年に46歳で亡くなってしまうのですが、彼女は天文学の知識はもちろん、ラテン語ができ、さらに数学的研究も行っていました。

ヘヴェリウスの業績は、このエリザベスの協力なくしては成しえなかったのではないでしょうか。

そんな、ヘヴェリウスと2人目の妻であるエリザベスを少しでも知るきっかけになれれば嬉しいです。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?