note最後の作品 「少女とは」
*前書き*
少女とは、こんな風であればいい、そう思って書きました。少しの謎と少しの幼さを、悪意無く曝け出す生物、そして、著しい成長を望む生物、それが少女だと。約2万時程です。
──
透明なガラスのカプセルの中に、私は閉じ込められている。青紫の蛍光灯がカプセルの中で光り、横たわる私にほのかな暖かさを与えてくる。私の体は手も足も頭も、きつい皮のベルトで縛られて動かせない。ベルトは締め付けたまま痛みを私に与え続けた。
そして、私は一人の女の人を見つめている、ガラスの中から。その人は長い赤髪をガラスへ垂らし、そして青い目に青紫の蛍光灯を反射させながら、横たわる私を上から覗いている。
その女の人は、優しく微笑んで、ゆっくりと呟いた。
「燈《あかり》」
その声と微笑みで、私の胸は暖かくなる。それと共に、私の指はその女の人の方へ、少しでも近づこうとして踠いた。けれども、手も足も動かせない私は、ただその人の顔や髪の毛を見つめ続けるしかない。そして気づけばいつのまにか眠ってしまう。
また目を覚ますと、同じ事が起こる。いつも、カプセルの外にはその女の人だけが居た。
それが、カプセルの中にいた私の記憶の全て。その何回かがあっただけ。
ある日、目を覚ますと、カプセルは海に流されていた。カプセルに合わせて揺れ動く空を、私はただただ見上げる事しか出来ない。そして暫くすると、どこかの海岸に流れ着いた。私はカプセルの中で震えていた。寒くてお腹が空いて、早く出たいと思った。けれど、私はベルトで縛られていたから、何も出来ないでいた。
空がオレンジになる頃、男の人が私を見つけた。白髪と白い髭を生やした男の人だった。
男の人は、私を見ると驚いた顔をしてカプセルを開けながら言った。
「なんて事だ……」
男の人は、着ていた白い上着を脱ぐと、私をそれに包んで優しく抱き抱え、家に運んでくれた。男の人は急いでいた。そして家に着くと、私をゆっくりと下ろし、暖炉の前に用意した椅子に座らせ、ちょっと待っててと言って、家の奥へと消えた。
明かりが一つぶら下がっているだけの家の中は、明かりが全然足りていなくて、影ばかりだった。私は少しだけ周りを見回して、身を縮こませて固まっていた。
男の人はにこにこしながら、暖かくて黄色いスープが入った器を私に差し出して言った。
「さあ、温まるから、飲んで」
私は受け取ったスープの美味しそうな匂いで、涎を口一杯に広げた。器に口をつけて、口の中にスープをごくごくと急いで流し込んだ。体の真ん中に流れる熱いスープが、冷えていた体をまた震えさせた。
今度はゆっくりとスープを啜る。コーンの甘味が口に広がると震えは止まり、温かいスープがお腹に貯まるのを感じた。
男の人はまだにこにことしながら、私の前に椅子を持ってきて座った。そして私に質問をした。
「君はどこから来たんだい」
「分からない」
私が言うと、男の人は少し驚いた顔をして固まった。そして、自分の名前を言って、また私に質問した。
「僕の名前はアルマだ。君の名前は?」
「分からない」
アルマという人はゆっくりと椅子の背もたれに背中をあずけた。そして何か考えたふうにして、近くの棚から銀色のスプーンを持ってくると、私に差し出しながら言う。
「これは、見た事はある?」
「無い」
「でも、これがどんな名前で、どうやって使うかは、知ってるね?」
「うん」
私が言うと、アルマという人はすごく悲しそうな顔をして涙を流し始めた。手で目を押さえた風にしているけれど、涙が白い髭に垂れ下がり、床に落ちてゆく。何滴かを床に落とした後、鼻をすすりながらアルマは言った。
「じゃあ、使ってみなさい」
私は、恐る恐るスプーンを受け取ると、それでスープを掬った。私は何も気にせずに、夢中でスープを何度も口に運んだ。スープはとても美味しかった。アルマが泣き叫んでいる事に気づいたのは、スープを飲み干した時だった。
アルマは白髪頭をこちらによく見せながら、大きな声で泣き叫んでいた。私は何故だか、泣いている理由が聞きたくなった。
「アルマ、何で泣いてるの」
アルマは顔を上げ、私の顔を暫く見つめた。そして、涙が治ると笑顔になって言った。
「奇跡というものが、この世界にあったという事を知ったからさ。奇跡と言うものの前では、泣いていいんだよ、どんなものでも」
私は何も返事をせず、スプーンを器にゆっくりと置いた。そしてアルマをただただ見つめていた。
アルマは椅子をことっと音を立ててこちらに少し近づけると、眉尻を下げながらゆっくりと言った。
「君の名前は、僕がつけていいかな?」
言い終わりの言葉を聞いて、私は頷いた。
「君の名は、燈《あかり》だ」
アルマはそう言うと、私の頭をゆっくりと撫でた。
私は、そうやって燈になった。
「分かった、私は燈。女の人も、そう呟いてた」
無くなったスープの器越しに、私は少しだけ警戒しながら、アルマを覗いていた。
アルマは驚いた顔をして少しの間固まった。そして顔に皺を沢山作って、顔を手で覆い、大きな声でまた、泣き叫んだ。
私は、奇跡というものの心当たりを記憶の内に探したが、私の中のそれは、オレンジに照らされたアルマの顔だった。
私もあんなふうに、泣くのだろうか。
私は静かに、指を伸ばした。
アルマの頬に垂れる涙は、私のものより暖かかった。
自分の名前も、どこから来たのかも分からない私は、ただ少しだけ、アルマの方を真っ直ぐ見始めた。
──
私は、海の近くに椅子を置いて座る。そして空を見上げ続けた。私は、空を見上げるのが好きだった。
はっきりとした白と青。横から来る海の音。強かったり弱かったりする、肌と同じ温度の風。変な匂いのする空気。それらがオレンジを超えても、私はそのままでいた。黒く、つまらないものと感じる頃、輝く星を気にも止めずに私はアルマの家に戻る。
木のドアを開け、私は黙って部屋の真ん中にあるテーブルにつく。一つしかない明かりに照らされた狭い範囲の中に、いつも収まっているアルマの背中をまた黙って見ていた。
「燈、今日はどうだった?」
アルマは何かをしていた手を止め、ゆっくりと振り返りながら笑顔を見せて言った。
「昨日より、雲が三十個多い。風も百八十六回多く吹いた」
私はアルマの笑顔に散りばめられた皺の数を、頭の中で数えながら言った。
「はっは、今日はそんなに多かったんだね。ご苦労様」
アルマはまた背を向けて、コップを取りに行く。その背中は私が出会ってからの約九年の間に、どんどんと曲がっていった。そのせいか、振り向く速度も、私にコップを差し出すまでの時間も、年々遅くなっていた。
「はい、ミルクティーだよ」
側面に燈、と黒いマジックで書かれたコップが私の前に置かれる。コップの八分目位まで入っているミルクティーの、白い湯気。私はその湯気を鼻に近づけ、甘い匂いを頭に届かせる。胸が暖かくなる感覚を呼び覚ましながらミルクティーを静かに啜った。
「なあ、燈もそろそろ情緒というものを覚えてみないか」
対面の椅子に腰掛け、頬杖を軽くつきながら、にこにこしてアルマは言った。
「情緒?」
そう聞き返してミルクティーを啜る。
「ああ。何でもいいんだよ、例えば、空が青くて気持ちいいとか、風が優しく撫でてきて、空を飛んでいるみたい、とか」
アルマはそう言って、両手を広げたり、目を瞑りながら天井を仰いだりした。
「アルマから貰った本には、そんな事は書いてなかったよ。青色が視神経を通ると、快感を得るの?風に、撫でてくる手があるの?」
私はコップを置き、頭の中でよく考えながら、そしてアルマの言っている事を疑いながら、首をかしげて言った。
「はっは、いやいや例えだよ、例え。でも、そうか、うちには研究の為の本しか無かったね」
アルマは笑うと、白い髭をいじりながら、何かを考えている風に指を動かした。そして少ししてから、思いついた様に一人で頷くと、楽しそうな顔で私に言った。
「明日、何か流れ着いてないか浜辺で探してみよう」
アルマはそう言い終えた途端、真顔になる。そしてそれを私から逸らして横を向いた。
私はその顔を見つけてしまい、その拍子に、忘れていた筈の事を一年振りに思い出した。
明日は、私の誕生日。明日で私は十六歳。
私は、どうしようもなく無気力となり、持っていたコップより手前の方に、目線を垂らすしか無かった。
アルマは、そんな私に気づいた様で、椅子からゆっくり立ち上がると、こちらへ来て私の左側に立った。そして黙って私の頭に手を添えて、彼のお腹らへんへゆっくりと引き寄せた。そして私の髪を撫で下ろしながら、またゆっくりと囁く。
「大丈夫だよ、燈」
斜めになる視界の中でも、私の視点は変わらなかった。
大丈夫という言葉が、私の頭に留まらずにどこかへ過ぎ去ってゆくのを感じた。
代わりに、無駄、無情、無意味、そんな言葉が頭に浮かんでくる。
「さあ、ご飯にしようか」
私の頭の上からそう話しかけるアルマが、私の側を離れて台所に向かおうとする。
「いらない」
私はアルマの方を見ずにただ答えた。
さっさと眠ることにした私は、おやすみとだけ言って、出来るだけ階段の上の方を見る様にして、そして階段を登る足をいつも通りの早さになるべくして、部屋へと向かった。
四畳程の私の部屋。部屋にはベッドだけがある。私はドアを開け中に入ると、普段開けている窓を全部閉め、木の雨戸も閉めた。部屋が真っ暗になった。それでも、頭の中に見える無駄、無情という言葉は隠せなかった。むしろ、より大きな言葉に成長している気がした。
私は何も考えない様に集中して、ベッドに仰向けで倒れ込んだ。着ていたワンピースもふんわりした後にだらんとしている感じだった。
暗い天井を見上げながら、私の頭の中をぶちまけられれば良いのに、と思った。そうすれば、何も感じなくて済むのに、と。
横になって少しして、眠りが迎えに来ると、体が浮いた感じになって、そのままでいると、やがて私は夢を見始めていた。
変な夢だった。壮大な広さの黒、そこに程よい明るさが散りばめられている。私はその景色が、何だかつまらないものだと思いながらも、その前に座ったまま眺め続けた。
暫くすると、私は閃いた。
つまらないものなら、変えてしまえばいいのだ、と。
私は手を伸ばし、その黒を指でかき混ぜる。すると、波打つ黒のその波間から、別の色が現れた。黒ずんだ赤だった。
その赤は、溢れる様に周囲の黒を塗り替えていった。
刹那、私は痛みによって飛び起きた。
「ぐっ……う」
上半身だけ起こしたまま、両手を胸に強く当てて、震えている体に抵抗した。私の体は、足のつま先から首までの全ての関節で痛みを発していた。血が通る度、針を刺される様な痛みが走る。痛みの度、汗がひたすらに浮き出て、服も髪も濡らし始める。
私は、一年振りの憎たらしい苦しみが始まる中、ただただ目を瞑り、体を動かさない事に注力する事しか出来なかった。体を動かしてしまうと、破裂した様な痛みがたちまち襲ってくるから。
階段をアルマがゆっくりと上がってくる音がする。その、とん、とんという音が鼓膜を揺らし、その揺れが体を這う様にして行き渡り、ついでにじわじわと痛みを各所で強めていった。その痛みで、私の目は見開かれる。目と鼻と口からはだらだらと水分が溢れ、やがて頭の裏の方まで痛みが突き抜ける。まるで、背骨が頭蓋骨を貫いた様な、そんな衝撃を毎秒味わい続ける。
これが、苦しみの本番。
「あ……あっ」
目が頭の内から押し出される様な酷い感覚と、絶え絶えの息の中で、アルマへの助けの声を絞り出した。
アルマが、のんびりと私の部屋のドアをノックする。勿論、私の体もその衝撃に反応する。私は堪らずにベッドへ上半身を投げたが、失神すらさせないとばかりに暴れる全身の痛みに翻弄された。ベッドがぎしっと鳴る音を感じて、体が痙攣している事に初めて気づく位、私は朦朧とし始めていた。
部屋に明かりが差し込んだのを感じて、ドアが開いた事を察知した私は、最後の力とばかりに目をそちらに向けた。アルマの声は聞こえたが、それを聞き取る余裕など無かった。廊下の明かりを背負い佇むアルマの輪郭を視界に捉えた所で、私の意識は漸く消える事が出来た。
そしてまた夢が始まった。
私は、真っ黒なものに飲み込まれ、ふわふわと浮いていた。それは海に浮かんだカプセルの中とは違う、些細な居心地の良さも用意されていない感覚だった。突然何かに叩きつけられる気がして、鼓動が無駄に早くなるのを感じて、ただそれだけ。何も起きずに、ただただ、そうして浮かんでいるだけだった。
暫くすると、私は理解したか閃いたかで、この状況を腑に落とす事が出来た。
私は、黒の中でしか生きられない、という事だろう、と。
日差しをわざと当てられた気がして、私は眉間に皺を寄せる。
「おはよう、朝だよ」
明るみの中からアルマの声が聞こえる。
瞼が酷く重い。陽で目が痛む。ざあざあと鳴る波の音で耳が痛む。私は堪らず上半身を起こした。頬をかすめる風は暖かいが、ひゅうひゅうと私の髪を靡かせるから、頭が揺らいで痛む。けれども、そのどれもを感じられるという事が、私の生きている証でもあって、そこまで嫌では無かった。
「大丈夫、もう注射は打ったからね。気分はどうだい?」
アルマが私の背にそっと手を添え、水が入ったコップを差し出しながら聞いてきた。
「うん、大分良い」
私は水を一口飲んで、胸に溜まる重い息を吐いた。そして今度は私から聞いてみる。
「前の日に発作が出始めるなんて事無かったのに、何で?」
「きっと、気まぐれだろう、気にする事はないよ」
アルマは窓辺に向かい、海の方を眺めた。私と同じ様に、髪が靡いた。
いつまでもそうしているアルマを見て、私は悟ってしまった気がした。
私はもうすぐ動かなくなる、と。
川で釣ってきた魚が動かなくなるみたいに。魚はナイフで腹を切られると、弱って動かなくなる。アルマがいつもそうしている。ナイフで腹を切られれば酷く痛む。だから私も、酷い痛みを感じ過ぎれば、きっと動かなくなる、永遠に。
初めて私が発作を起こした後、アルマは私に、その痛みの事を教えてくれた。
私の体は、人工タンパク質によって滅ぼされている、と。そしてそれはいつも決まった時、私の誕生日に起こる。誕生日というのは、アルマが私をカプセルから救ってくれた日。
燈という名前の君が誕生した日、だから誕生日をこの日にしよう、とアルマは言っていた。
何故、決まった日なのかは分からないけど、治す薬を必ず開発する、とも言ってくれた。
でも、今は言ってくれない。
だからきっと、そういう事なんだと思った。
アルマの足元らへんをぼーっと見ていると、アルマが振り返りながら言った。
「本を、海で探してくるよ」
アルマは目を細くさせて、笑っていた。
私はアルマの顔が向き終わる前に、笑顔でいた。
「やった、ありがとう」
「燈はゆっくり休んでいなよ」
アルマはにこにことしながら私の頭を撫でて、部屋を去った。
何だか、いつもよりがらんとしている様に感じる部屋の中。部屋にある一つ一つに目を止めながら、ゆっくり深呼吸をした。そして窓辺に立ち、下を見る。アルマが丁度行く所だった。
「アルマ、気をつけてね」
私の小さな声を背中で受け、アルマは少し振り返って手を振ってきた。そして背中を丸めながら、海の方へ歩いて行った。
私はアルマを見送ると、すぐに一階へ向かった。一階にはリビングと、アルマの部屋がある。目的は、アルマの部屋だった。
私はアルマの部屋に入った事が無かった。入ってはダメだと言われていたからだ。何があるか聞いても、アルマは本だけだよ、と言うばかりだった。けれども、そうではない事は知っていた。アルマが部屋から出る時に、中が僅かに覗けるからだった。部屋の真ん中には大きなテーブルがあって、その上には瓶が沢山置いてある。そしてその両脇には、沢山の本が寝かされている。そして、アルマの部屋が開く時にはほんのり、花のような甘さと鉄の冷たさが混ざった様な匂いがする。
私はアルマの部屋の前に着くと、玄関の方を見ながら、ゆっくりとドアノブを回した。
すんなりと開くドア。中をゆっくり覗きながら、少しの間立ち止まる。そして、怒られる覚悟と言い訳を準備して中に入った。
窓から伸びる陽の明かりが、テーブルを照らしている。テーブルの照り返しに目が痛み、埃っぽさで咽せる。長居は出来なさそうだと思い、手近な所から早速、探索を始めた。
茶色や黒の本達。動物学や植物学といった生物学の本。横に寝かされたその本の塔の背をさらっと見た。殆ど読んでいるものばかりだった。私は本の塔に見切りをつけて、何か面白いものが無いかと、他の所にも目を走らせた。テーブルの上には、青や深緑やピンクの液体が入った瓶が沢山並んでいる。何も書かれていない瓶達の匂いでも嗅いで回ろうとも思ったが、毒物の可能性を考慮して諦めた。部屋の奥に一歩進む度、咳き込みが酷くなった。私の横で、沢山の塵が陽に晒されひらひらと舞っている。そのテーブルの向こう側、壁の方に本棚があった。ドアの影になっていたから、その存在に今まで気づかなかった。
床に散らばるメモ書きをなるべく踏まない様にして、本棚へ歩み寄る。本棚の高さは天井まであり、私の二つ半程の高さだった。幅は私が手を広げるよりも長い。びっしりと本が詰まったその本棚は、倒れてきたら一瞬で押し潰される程の重厚感を与えてきた。
私は本棚の前で立ち止まって、テーブル向かいに立つ本の塔を見た。
私は無意識に伸ばした人差し指を、本棚の本達の背に這わせた。そして、ある事に気づいた。この本達は、全て読んだ事がある。そこには最近読んだばかりの本もあった。
私はもう一度、本の塔を見る。大小の本が乱雑に積まれ、あちこちに背を向けている。
「何で……」
私は本棚の本を一冊取り、テーブルに置いた。頭に浮かんだ仮説を確認する為、一度全て出してみた。
すると、真ん中の一段の、棚の奥の板に左右一つずつ、金属製の小さなつまみがあった。私はそれを押したり引いたりしたが動かなかった。がちゃがちゃと乱暴にしてみてもびくともしなかった。
「何か分からない事がある時は、もっと俯瞰して見た方が良い」というアルマの言葉を思い出し、私は後ろに下がる。そして、答えを出した。
両手を目一杯伸ばし、両方のつまみへ伸ばす。顔に棚板を食い込ませてやっと、指先がギリギリ触れる。そしてつまみを同時に力一杯下げた。すると、板が下がった。
「やった」
ざざっと音を立て途中で引っかかったが、板が半分くらい下がった。板の向こうを見ると、真ん中に赤いものが見えた。
私は夢中になって一生懸命に板を下げる。本を初めて読んだ時の様に、とてもわくわくしながら。
がたっと、最後まで板が下がると、赤いものが、どんっと棚板に倒れてきた。
それは、表紙の赤い本だった。それは私の顔以上に大きくて、私の手のひらを広げた程の厚みがあった。
私はすぐさま手を伸ばし、両手で抱え込んだ。鼻息が荒くなり、心臓が早くなり、にやけが止まらなかった。重さも最早気にならなかった。
赤い本をテーブルに置くと、すぐさま棚を元通りにし、そそくさと部屋を出て、階段を駆け上がり、本を抱えたままベッドに飛び込んで、足をばたつかせた。体の痛みが気にならない程、私は興奮していた。
色も、大きさも、見た事がない本だった。そしてもう一つ、私を興奮させていた事があった。それは、表紙にも背にも、何も書かれていない事だった。そのせいで私は、何について書かれているのかという期待を頭一杯に膨らまされるしかなかったのだ。
無我夢中のまま、早速と本をベッドに寝かし、厚みのある固い表紙をめくった。無我夢中のまま、早速と本をベッドに寝かし、厚みのある固い表紙をめくった。中身は一枚一枚だと透けてしまう程にとても薄く、けれども簡単に折れ曲がったりしない、とてもしっかりとした紙だった。
書かれていた一行目。私は早速釘付けになっていた。 「十月二十一日。今日は燈の誕生日」
私は、ぐっと手に力を込めて、表紙を握っていた。
「え……」
私は急いで読み進めた。
「燈が生まれて早三年になった。寝返りも出来なかった赤ちゃんの頃が、つい昨日の事みたいに感じながら、立って歩く姿をいつまでも見ていた。いつのまにかどんどん大きくなっていく。今日は一人でおままごとをしていたみたいで、大根のおもちゃを私に手渡してきた。お母さんみたいにがさつな人にならずに、料理が好きな可愛いお嫁さんに育ってね」と、書いてあった。
大根のおもちゃも、おままごとという行為の記憶も無かったが、名前は私と偶然にも同じ燈だった。
自分の名前も、どこから来たのかも分からなかった私は、ただ名前が同じだというだけで興奮していた。そして僅かに期待していた。この本に書かれている燈が、私の事ではないのか、と。私の過去が、分かるかもしれない、と。
本の中の燈はどんどん大きくなっていった。四歳、五歳と進むにつれ、出来る事も多くなる。話が出来る様になったり、家の壁に絵を描いたり、怒られる様になったり、歌を歌ったりするようになった。
しかし、私の知っているガラスのカプセルの事は一つも書かれていなかった。そして勿論、書かれている事全てに対して、記憶の片鱗僅かすらも反応しなかった。
それでも、一粒子程に微塵となった期待だけは手放せなかった。
勿論、アルマにこの本のことを聞く事は出来ない。間違っても、勝手に忍び込んで本を盗んだ、なんて言えない。
だから私は、本を閉じて深く深呼吸をした。そして、また表紙を捲り、一ページ目からゆっくりと読み進める事にした。改めれば、何かが分かるかも、と。
しかし、たった数ページの所でどうしても理解出来なくなってしまい、検証出来なくなってしまう。それは例えば、私の宝だとか、愛おしいとか、そういった言葉だった。今度は、そういう所が気になってしまう。どうにも理解出来ない燈への言葉が沢山並んでいるから、私はいちいち頭を悩ませる。今まで読んだ生物学に照らし合わせたりしたが、解決が出来なかったのだ。
私はくたびれた様に、本に突っ伏す。本にべたっと顔をつけて、部屋の壁をぼーっと眺めた。
私の近くで、陽の塵が呑気に空中散歩をしている。
私は思った。壁の輪郭もベッドの輪郭も、塵と本の輪郭もはっきり見える。なのに、この本の内容は、輪郭が見えてこない。分からない言葉ばかりで。
私の熱量が下がり始めると、今度は体の痛みが増してくるのを感じる。水を一口飲んで、窓から見える雲を見つめた。今日の雲は穏やかで、居座ったままのものが多かった。
私は読書を一旦諦めた。表紙を閉じて、ベッドの下に本を隠した。万が一にでも、アルマに見つかる訳にはいかないから。見つかったら、きっと取り上げられてしまうから。
ベッドへ横になり、毛布を手繰り寄せ抱きしめながら、目を瞑る。「愛おしい」と口に出してみながら、その意味を想像した。
「燈、そろそろご飯だよ」
近くから聞こえるアルマのゆっくりとした声。窓の閉まる音と、カーテンのふわっとした音。
目を開けると、既に点けられていた明かりと、ベッドの高さまで屈んだアルマの顔が見える。少し疲れた様な瞬きと、ジョークを言いたそうにした口元だった。
「うん」
手を突いてゆっくり体を起こすと、カーテンの隙間からオレンジ色が見えた。途端に出た頭の痛みを堪えながら、ベッドからゆっくり降りた。
膝を痛ませながら立ちあがろうとするアルマの手と肘を支えた。
アルマは立ち上がり終えると、「燈、凄いぞ!今日は鮎が四匹釣れたんだ」と言った。アルマの顔は、いつもの陽気なそれだった。
「凄いね!」と言う私の顔を、アルマは少し見て、ニコッと笑った。
アルマの手を離した私の手の平は、少しだけ汗が滲んでいた。
そして、私の頭の中には、赤い本で見た「凄いね」という言葉が浮かんでいた。
一階に降りると、料理が既に並んでいた。鮎に人参と小松菜が添えられたお皿と、コップに入ったお水、ナイフとフォークが綺麗に並べられていた。窓枠の形のオレンジが、それらに明るみを添えている。
「いただきます」
「いただきます」
鮎の身をナイフでほぐして、フォークに乗せて口に入れた。程よい苦味と塩味、土の香りがして奥深い味で美味しい。
「今日は、海で見つけられなかったよ。ごめんね」
「ううん。ありがとう。明日、自分で探してみるよ」
「よしなさい、危ないから」
「平気だよ、危ない事はしないから」
「なら、せめて注射だけは打って行きなさい」
アルマの言葉に、私はフォークをゆっくりと置いた。
いつもなら、誕生日の夜だけだった発作。今年は前の日の夜から。そして、それが明日も続く、という事をアルマが明確に告げた瞬間だった。
それは、確実に状態が悪化しているという事。
「燈、良く聞いて」
アルマの目を見つめた。
「いつか必ず、私が治す薬を作ってあげるから。約束だ」
アルマの目はしっかりと私の目を見ていた。
「約束?」
「ああ。未来を作る魔法の言葉だよ。大切な言葉だ」
「また、本に書いてない言葉だね」
「そうだね、研究の本には書いてないだろうね」
「私も、もっと言葉を知りたい」
「ああ、燈なら本さえあれば、沢山の言葉を覚えられるよ」
アルマはそう言って、おどけたふうに目を大きくして、笑顔で言った。
私は、オレンジ色をしたアルマの目尻に、反射するものがあるのを見落とさなかった。
私は、黙って笑顔を返した。
鮎の身をフォークに乗せて口に運ぶ。苦味も塩味も感じなかった。ただ胃に落とす感じで飲み込んだ。
アルマは俯いて、夢中で鮎を口に運びながら美味しそうに頷いていた。
そんなアルマの後ろにある壁に貼り付けてあるカレンダーがやけに目に止まる。
今日は、二千四十六年十月二十一日。
この家に来て一回目の誕生日、二千三十八年に私が誕生日を迎えた次の日、アルマがカレンダーを捨てようとしていたから、私は止めた。
「カレンダーがあった方がいい。その方が一日一日を大切に出来る気がするから」と。
アルマは、「たしかに、その通りだね。私が間違えていたよ、すまない」と言って、私の頭を胸に抱き寄せた。
アルマは胸を何度か震わせて、息を吸い込んでいた。
そんな事を思い出すのも、もう何回目なのか分からない。
アルマは年老いて背中が曲がる。
私の発作は年々悪化する。
誕生日なんて、アルマにも私にも必要無い。
未来を作る言葉があるなら、何度でも言うからやってみせてよ、と薄暗くなったオレンジ色の窓に思った。
オレンジは、人参も小松菜も、鮎も私達も等しく照らしていた。
朝。アルマが私への注射を終えて部屋を出ていくと、私は意気揚々とベッドのシーツを剥がし、ベッドの下に隠した本を包んで結く。シーツと毛布を、毛布とカーテンを結んで、それをゆっくり下に垂らした。
アルマには、「女の子の日で大変だから、絶対に入らないで!勝手に入ったら怒るから」と言って、窓から出たシーツも毛布も干してるから触らない様にと忠告した。
呆気にとられたアルマに、「海へ行ってくる」と言って私はそそくさと家を出た。
注射のおかげか、体はもうほとんど痛みが無くなっていた。
シーツを解いて本を抱き抱え、一旦、海の方へ向かう。そして家から死角になったのを確認して、森の中へ入って行った。もしアルマが来てもバレない様に。
森は家から歩いて数分の所にある。ヒノキが沢山生えている森で、私とアルマはよく、その森を通って川に向かう。
私は普段とは違う道から入り、森を突き進んだ。
見慣れない地形に黄色や茶色の落葉がふんわりと敷かれている。その中に、丁度良い加減に曲がった木があったので、そこに座り込んで木にもたれかかった。
近くで流れる川のせせらぎだけが届き、後はとても静かなものだった。
両膝を立てて、そこに本を開く。丁度良い塩梅に降り注ぐ木漏れ日に文字を宛てがいながら、昨日の続きを読み始めた。
読み始めてすぐに分かった事は、この本の主体が燈の母親だという事だった。母親がどういったものかは、動物学の本で学んでいた為、すぐに理解が出来た。
私はお腹の上辺りが熱くなるのを感じた。指が僅かに湿って、ページを捲り易くなった。
本の内容がやがて少しずつ、この母親の話になってゆく。仕事、というものについては、特務的多元研究開発機構区という長い名前の建物の中で働いている、と書かれていた。そしてその内容は、人間の研究、とあった。
私は生唾を飲んだ。アルマの本で見た、動物の解剖写真が脳裏に蘇る。
私は少しずつ、恐る恐る目を先に進めた。
しかし、書いてある事は予想に反して、穏やかなものだった。人間はどの様な時にどう思うか、や、宗教といったものや団体行動についてなど、人間の思考や行動に関する内容だったのだ。
私は安心すると、改めて本の表紙を握り直し、読書を続けた。
この母親は、とても頭が良いボスらしい。頭が良い事は文章を読んでいても分かる事だったが、沢山の人間を従えていた事も書いてあった。そして国、というものに研究を任された、と書かれていた。
研究は、学者さんやアルマの様に頭が良くないと出来ない。そして団体を率いる訳だから、動物と同じく「ボスやリーダー」という存在なのだろうと理解した。
しかし、その段落の最後に書かれた内容が、私にはよく理解出来なかった。
段落の最後には、こう書かれていた。
「私が犯した人生最大の罪もしくは功績は、いずれにせよ、この研究を引き受けた事自体になるだろう」と。
そこから幾分か読み進めてみたが、研究の事は一切書かれなくなった。代わりに、その建物の中の説明だったりと、どうでも良さそうな内容が続いていた。
そうして漸く、百ページ程を読んだ次第だった。
私は、息を深くまで吐き出して本を閉じると、手を上へ思い切り伸ばした。
森の中は変わらずの静けさを保つ。変わったものがあるとすれば、時折聞こえた鳥の囀りが遠くなった位だった。
私は、まだまだ余る本の厚さを暫く見つめた。そして、とてつもない発見がここに隠されているかも、と自分を鼓舞して引き続き読み進めた。木漏れ日がどんなに位置を変えても、それに従った。夢中になって、本に没入した。
私は本が大好きだった。知るという事がとても好きだったからだ。何かを知る瞬間というのは、私にとっては、頭の中に青い空が広がるという様な感覚だった。そこに吹く清涼な風が、頭の中の草原に、気持ち良い程新鮮な空気を吹き込んでくれる、そんな感覚だった。
私の唯一の幸せが、知るという事、だった。
この本を読むまでは。
「最悪で、気色悪いものを生み出してしまった」
「カプセルの中の、最低のゴミ」
私は、本を閉じ、そこらへんに放り投げた。そして膝を抱えて泣いた。声を上げて泣いた。
どれくらいかはわからない、ただひたすら泣いていた。落ち着いては泣いてを何度も繰り返した、壊れた様に。耳が痛くなる程に泣き叫び、目の下がふやけてしまう程涙を流し、呼吸が定まらない程、泣く事を続けた。
陽が翳り、地面の黄色い落葉が見上げる、ただ上を。
私はそんな落葉を見て、最早ここに居てはいけないという事に気がついた。それは、私の様な気色悪い者が居ると、森が汚れてしまう、そう思ったからだった。
落葉にまみれた本に目を落とし、力無く持ち上げ、抱き抱える。落葉に沈む足を、一つずつ引き上げる様にして、前に進んだ。
森の中を抜ける風が、私の背を何度も押してきた。その度に、落葉に足を取られた。何度も躓きそうになりながら、私は歩いた。
森を抜けて、いつもの道。すっかり暗くなった道は、いつもより長い道のりを私に歩かせてくれた。
道を見つめながら、読むんじゃなかった、と後悔した。
やがて、アルマの家の光が視界に入ってきた。
私は、足を止めて思った。
私はもう、あの家にいちゃダメなんだよ。
このまま、居なくなった方がいいんだよ、と。
風が、まだ私の背を押している。
いいよ、もう。
勘違いをしてたんだ。
私の、生きてる意味はあるって。
勝手に。
風は、深緑の草を騒がせていた。草達は円やかに踊る。
最悪で、最低の、ゴミ。
作った人が名づけたのなら、それ以外に正解は無い。
「草達は良いね、風が吹けば賑やかに踊れるから」
私は、草に嫉妬する程になっていた。
でも、この本だけは返さないと。それで、お別れしよう、と思った。
私は笑顔を作った。なるべく胸を張って、足をいつも通りに。
でも、何度も足に力が入らなくなり、しまいに崩れて蹲った。
アルマとの日々が、勝手に思い起こされ、その度、力が抜けてしまっていた。
私は、これじゃ駄目だと思い、頬を叩いた。
「しっかりしろ、私!お前の感情なんかに、価値なんか無いだろ!」
何度も叩いた。強くする程、寂しさが薄れていく。
暫くして大分楽になると、私は家に辿り着くまで意気揚々と歩く事が出来た。「アルマ、ありがとう」と、何度も呟きながら。
玄関を開けると、テーブルの向こうに、いつものアルマの背中があった。
アルマは私の帰宅に気づき、ゆっくりと振り返ってきた。
「ごめん、アルマ」
笑顔で謝った。赤い本をきつく抱きしめながら。
アルマは、赤い本に気づくと、目を見開き、口は穴の様に開けたままにした。
「この前、本を探そうと思って、勝手に入っちゃって、たまたま見つけちゃって……ごめん」
苦笑に変えて謝った。
アルマはまだ固まっていた。
アルマの顔へと登る湯気が、不意に私の視界に入る。
アルマの手には、暖かそうに湯気をやんわり立てる、器に入った黄色いスープ。
私は、もう立てなかった。
不意に見たそれが、あの時のスープだったから。私が初めてアルマと会った時に、アルマが私に差し出した、暖かいスープと器だったから。
私はとうとう床に座り込む。力が入らなくなってしまった足を見て、どうすれば良いかを考えた。
けれど、どうする事も出来なかった。
立ち去る事も出来ない私は、どうしようもない無価値なゴミだと絶望し、項垂れるしかなかった。
さすが、ゴミだと納得した。
アルマが駆け寄って、私の両肩を優しく掴み、私を向き合わせた。アルマの表情は優しくも険しい。
「中を、読んだのかい」
「ううん」
私が答え終わる前に、私を胸へ引き寄せ、「バカな事を!」と言って、きつく抱きしめてきた。
アルマは目一杯、泣き叫んでくれた。
「ごめんなさい」
私も泣き叫ぶ。何度も謝った。
その度、悔しそうに泣き叫ぶアルマ。
その声が、じんじんと響く、私の芯に。
ゴミでごめんなさい。
最悪でごめんなさい。
気色悪くてごめんなさい。
からだを震わせて、それらを吐き出させた。
いつしか、叫んでいたのは私だけだった。
「燈、もう謝らなくていいんだよ。君はゴミでも最悪でも、気色悪くもない」
アルマはそう言って、私の頭を撫で続けた。
気づけばスープがすっかり冷めた頃。
アルマが、「冷めたスープは、味が深まるし、体にも実は良いんだ」と言って、笑ってきたから、私もつられて笑った。
アルマは私を支え、椅子に座らせた。赤い本をゆっくりと、テーブルの端に置き、スープの入った器とスプーンを用意した。
「さあ、食べよう。いただきます」
「いただきます」
スープはとても冷たくなっていたけれど、とても甘くて美味しい。
アルマも「美味しい」と言って何度も頷く。
私は、これがアルマとの最後の晩餐だったとしても、何も不幸せな事なんか無い、そう強く思えた。むしろ、今までが幸せ過ぎたという事を自覚して。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」
私は器を下げて、流しで洗った。その間にアルマはミルクティーを作ってくれていた。
アルマは自分の所に一つ置くと、私のコップを向かいでは無く、自分の隣に置いた。
「さあ、燈。暖かくて美味しいミルクティーを飲もう」
ミルクティーはいつもより白い。湯気もいつもより甘い。
「美味しい」
飲んだアルマがそう言ってまた頷く。
私もミルクティーを啜った。
「うん、美味しい」
並んで飲むミルクティーは、とても安心する味がした。
「私は、この時間が一番好きだ。何よりも大切な時間なんだ、燈と一緒に食事をして、ミルクティーを飲む、この時間が」
「うん」
「燈……今から言う話をよく聞いてくれ」
アルマはそう言いながら、赤い本を目の前に引き寄せた。
そして、本を見つめながら言った。
「この本は君の事も書いてある。読むのが早い燈なら、そこはもう読んだね?」
「うん」
「この本には、燈が人工人間であると書いてある。燈は人間ではない。残念ながら、それは事実だ」
「うん」
「だが、この本を書いた者は、決して燈を酷く思ったりしていない。それは間違いないんだ」
「どうしてそう言えるの?」
「それは、この本を書いた人の事を、私が良く知っているからだよ」
「この本を書いた人って?」
アルマは優しい笑みを向けて言ってきた。
「燈が思っている通りだよ。この本を書いたのは、燈のお母さんだよ」
「お、母、さん」
「私は君のお母さんを昔から良く知っている。どんな人だったか、何が好きか、君の事を、どれだけ愛していたか、もだ」
「愛していた、って何?」
「私は燈を大切に思っている。こうやってミルクティーを一緒に飲んで美味しいと言い合える、こんな普通の事がとても大切に思える。燈はどうだい?」
「うん、私も。アルマとの時間は全部好き」
「愛、というのはつまり、そういった普通を、大切なものに変えてしまう魔法だよ。誰しもが持っているけれど、大切な人にしか使えない魔法、心の平和を作る魔法、それが愛だ」
「また魔法?」
「はっは、いや例えだよ例え。でも、それだけは間違い無いんだ、お母さんは、燈を大切に思っている」
「でも、気色悪いって」
「燈。君はとても賢い、お母さんに似て。だから、しっかりと聞いてよく考えるんだ、この本の事を。この本は、私が燈の乗っていたカプセルから見つけたものなんだ。お母さんは、君がいつか、この本を読んでくれると思って、この本を君に託したんだ。敢えて、君の事を酷く書いたのには、きっと大きな理由があるのだろう。そして私はこの本を見つけた時に、すぐに最後まで読んだ。だが、私では理解出来なかった。この本は、日記の様で日記ではない。彼女らしい文でもあり、けれども何かが隠されている様な違和感がある。きっと、お母さんは、君なら理解してくれると信じて、この本を書いたのだよ」
「そうだとしても、私なんかに、解るはずない。人間じゃない自分なんかに!」
「燈、私が何で、この本を捨てなかったか、分かるかい?君なら、意味のあるものに出来る、この本を。君しかいない、そう思ったからなんだ。私はそう信じたんだ」
「だから、何?人間じゃないものと言われた私の気持ちなんて、アルマになんか分からないよ!」
私の手はコップを振り払った。
燈、と書かれたコップは床に叩きつけられ、粉々に砕けた。白いミルクティーが容赦無く、辺りを汚した。
アルマは強く、私の肩を掴んだ。
「関係ない!お前はもう私の娘だ!愛する娘だ!人間かどうかなんて、何も関係ない!」
アルマの迫力ある言葉が、私の目を通って頭の中に直接響いた。
「燈、君は世界の事を何も未だ知らない!何故、燈の様な人工人間が作られたのかも、燈のお母さんが、どんな思いで君を誕生させたのかも!そして、どんな思いで……。世界が本当はどれほど悲惨で、残酷で無慈悲なのか!私は、私は!君と海で出会った時に、奇跡を信じたんだ!この世界にはまだ奇跡がある、と!だから私は、今日までこの本を捨てられなかった!本当は、君に、辛い思いをさせたくなかったから、何度も捨てようとした!見せない方が幸せなんじゃないかと、何度も迷った!奇跡が起こったのだとしても、お前の辛い顔を見たくなかった。お前の辛い顔を見るくらいなら、奇跡なんて私が断ち切ってやると。だから、本を、隠したままにしたんだ、私は。でも、捨てられなかった。それは、奇跡とか関係無く、お前と、お母さんの唯一の、繋がりでもあるから」
アルマは私から手を離すと、事切れた様に、酷く項垂れたままだった。
私も酷く疲れ、俯いていた。
私とアルマは暫く、そのままだった。
風の、窓ガラスを叩く音だけが、部屋に響き続けた。
「アルマ、辛い思いさせてごめんね。もう大丈夫、私は、ちゃんとこの本に向き合う」
私の体には、それなりの力が戻っていた。
私はテーブルの上の本を、アルマの前から手繰り寄せ、しっかりと抱き抱え、部屋へと向かった。
階段を登り終わる頃、下からアルマの啜り泣く声が聞こえた。
私は立ち止まらず、淡々と足を進めた。
ベッドの上でうつ伏せになると、早速と本を開く。今までで一番早く、文の上で目を走らせた。
それから私は、一夜のうちに本の全てを読み終えた。
まだ理解が出来ていない部分は多いが、たしかにアルマの言う通り、違和感がまとわりつく。それは文の良し悪しなどでは無かった。人間の一貫性が複数個、それぞれが完全に存在している様な感覚だった。互いに邪魔をせず、それでいてしっかりと主張されている。それはとても芸術的な、余りに芸術的なものだった。
「人間性で出来た、織物みたい」
私はそう言って、本の上で力尽きていた。
夢が始まる。
広い黒の夢に、私は包まれていた。
その中で、私はずっと考えていた。
何で、私は一人なんだろう、と。
気づけば、周りには星の様な煌めき達が沢山いて、それらは互いに光で繋がっていた。
私も、と手を伸ばしても、それらの遥かなる遠さを、まざまざと知るばかりだった。
煌めき達はどうしようもなく遠く、私は果てしなく一人だった。
じゃあ、私は黒と繋がろう。
私は、指からゆっくりと黒になる。
その中で感じたのは、黒にも暖かさがある、という事だった。
黒い視界が破れ、眩さが目の前に迫ってくる。
「おはよう、燈」
アルマが、いつもの様にカーテンを開けて起こしてくれた。
眩い陽の傍に佇むアルマに、私もいつもの様に笑顔で言った。
「おはよう」
そして、付け加えた。
「良い朝だね」
私は、いつもの朝ごはんの時を過ごすと、アルマに、本への見解を述べた。
「あの本には、沢山の人間性が居る。研究者だったり、一人の女性だったり、夢見る子供だったり、本が好きな人だったり、そして母親だったり。そんな人間性が、織り混ざって本が出来てる。多分、その人間性を一つずつ解いていけば、何か分かる気がする」
「複数の人間性、立場か。どうやら、私の読みは正しかったみたいだね。この本を読み解けるのは、間違いなく、燈、お前しかいない。お前なら、あの人の母親であるそれを感じられるだろう」
「分からない。けど、やってみようと思う。アルマ、私思ったんだ」
アルマは私の言葉を聞くと黙って俯き、私と目を合わせない様にして、静かにキッチンへ消えていく。
暫くすると、燈とマジックで書かれた新しいコップを用意してきて、それにミルクティーを入れて私の前に置いた。
アルマは、椅子に座っても私と目を合わせないで、ミルクティーを啜る。「美味しい」とだけ言った。
アルマは私の、決断を悟っていた。
それでも私は続けた。
「もし、私がこの本に意味があると思うなら、この繋がりを用意してくれたお母さんの行動もきっと、意味がある事になる。でも私がこの繋がりに意味がないと思ってしまったら、お母さんの行動の意味も無くなってしまう。私は、一つたりとも、私のように意味の無いものになって欲しくないの」
アルマは険しい表情で言った。
「自分に意味が無いなんて言ってはダメだ。お前は未熟だ。もっと自分を大切にしなければ」
そう言って、またキッチンへ向かおうとする。
私はその背中に、明るく言った。
「ううん、良いの。意味が無くても生きているって事を自分で認められたから。何も悲しくないし、そんな事なんてどうでも良い。今、生きているから。意味が無くても生きていられる、こんなに嬉しい事は無いの。意味を探さなくていいなんて、私は恵まれてる。なんて最高な人生なんだって。だから、アルマが泣くとさ、私が生きられない気がするから、もう、なるべく泣かないでね」
アルマの肩はもう揺れていた。
「だから、そういうのがダメなんだって」
私は明るく笑って言った。
「泣いてないさ、生意気な事ばかり言うもんだから、笑えてきただけだ」
アルマはそう言いながら、目を袖で擦った。
私はその背中に、旅立つ事を告げた。
アルマは、「頭が良くて、好奇心の強いお前は、いつかそう言うと思ってたよ」と言って、振り返って笑顔を見せた。
私は早速準備に取り掛かった。
僅かな食べ物、着替え、そして本をリュックに詰め込んだ。
私は自分の部屋を閉じると、廊下から脇目も振らずに玄関へ向かった。
外で待っていたアルマは、こちらに背を向け、空を仰いで立っていた。
空は青く、風もなければ白い雲も無かった。広大な青だけがある世界だった。
「綺麗だね、空」
私が言うと、アルマは嬉しそうに笑って言った。
「燈、君は変わったな」
「もう、雲を数えるのは卒業したよ」
アルマはまだ背中を向けたまま言った。
「燈。次の誕生日まで、もしくはその次の誕生日までなのかもしれない。何をするんだい?」
私は笑って言った。
「ふふ、十分だよ。十分幸せだから、死ぬのなんか怖くない。でも本が沢山読みたい、そしていつか、本を書いてみたい。私の好きな言葉で、本を埋め尽くしてみたい。そうしたら、この本を書いたお母さんの事も、もっと分かる気がするから。私が本を書いたらさ、アルマに真っ先に見せにくるね」
「ああ。楽しみに待ってるよ」
アルマは私を抱きしめ、背中をぽんぽんと叩いた。
「行ってらっしゃい。だが、これだけは約束してくれ。誰にも、人工人間の事と赤い本の事は言っちゃ駄目だぞ」
「うん、行ってくるね」
「ああ、くれぐれも気をつけるんだぞ。そして必ず帰って来なさい、これも約束だぞ」
「うん」
私は、家が見えなくなると、海と森の向こう側が左右に見渡せる丘へ向かった。
海を見下ろすと、黒い鉄くずや大きなゴミが、海岸から数キロ先の方まで滞留している。
森の向こうには、灰色に輝く鉄の建物がいくつも聳え立つ。
私はどちらへも行った事が無かった。
この広大な草原と森だけが、私の住んできた世界。
カプセルの中と、アルマの世界に閉じこもった私。
今度は、私の方から会いに行く。知らない世界に。
私を楽しませてくれよ、世界。
了
*後書き*
私は、あまり本を読んだ事がありませんでした。なので、未だに文の書き方というものが分かっていません。
でも、好きなのです。
だから、これからも沢山勉強します。
そしていつか、
読んで下さる方にストレスを感じさせない様な文を書ける様に頑張ります。
因みにですが、この「少女とは」という話は、私が一年前に「小説を書きたい」と思うきっかけになった、一年前の私の空想です。
当時は「soft clash」という作品でそれを表現したのですが、私の力が無いせいで、拙く醜い物として動かなくなってしまいました……。
あれから一年が経ち、少しは成長したのか、動けるケダモノを生み出せる位にはなったのかもしれません。
なので、私はこれからも諦めずに、どこかで私の作品を生み出していきたいと思います。
そんな馬鹿な私の姿が、少しでもどなた様の中で、黒鉛となって一文字の足しにでもなれば幸いです。
文を書くって、すごい事ですね。本当に皆様の事を尊敬します。
noteは、沢山の事を挑戦させて下さいました。
とても楽しかったです。
SNSも社会。
社会は終い方も大事だと、私は思ってます。
見て下さいました方々、本当にありがとうございました。
以上、私のnoteを終わりにします。