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自分を持つほど孤立する

人は誰一人として、他の誰かと同じ人生を送っていない。生育した時空間が異なれば、培った経験も、養った知恵も信念も認知も全部違う。

こんな当たり前なこと誰でもわかる。「他の人と一緒にしないで欲しい、自分は自分」と自分の個別性を尊ぶ思いはあるだろう。

なのに、どうして
「わかるー、わたしもー」と同調して喜ぶのだ?
同じ意見で徒党を組んで、気を休めるのだ?
少数派の異論を「向こう側の人」と排除するのだ?

同調するのは人間が社会性を持った動物だから。
信頼で個々人が連帯できれば小集団を形成できるから。

では何で排除するのか?
「それは色んな意見があるだろうが、今は情報が多すぎて、議論が面倒なんだ。プライドが邪魔して、素直に話せないんだ」って。

ムラ社会がグローバル化して、ライフスタイルが多様になったけど、他の人がどんな考えをしているか、言葉で聞いても未知の世界は簡単にイメージできない。
イメージするには沢山聞く必要があるのに、無知だと思わせたくないから、素直に聞けない。

社会的証明という言葉がある

つまり、
同調意見の存在に胸をなでおろしたり、
同調意見の不在に自信を失ったりすること。

本来、異論が当たり前なのに、同調意見を求めてしまう。その空気。異論として排除されることに恐れ、しまいには自分の意見を出しづらくなる空気。

こうやって、自分の意見を出しづらい環境は排除や孤立に恐れる人、異論を恐れて排除する人が作る。同調意見しか出せない環境を自分たちが作って、自分の考えを練る習慣を失って、他者の意見を組み込む習慣を身に着ける。

孤立から身を護る行動が、立場を護って、心を失った。

そうして心を失った人と自分の意見を持った人が議論すると、大概、衝突してしまう。

簡単に誰かの意見に同調した人は「どうして、そう思うの?」と訊かれることを恐れる。根拠がないから。身を護るために同調しただけだから。そして、こういう「そう思うの、あなただけだよ!」

だから何だというのだ。それがどうしたというのだ。

誰かと同じ、ということに価値を感じている人とは、互いの意見を交わし合うことなどできやしない。

意見の違いを知り、それぞれが異なる知恵や信念を持っていることを知り、それぞれに異なる文脈を持って生きていることを尊重できる。

でも、こういう人は、残念ながら少数派だ。対話を求めてもめんどくさいと一蹴されるか敬遠される。

自分の意見を持つと、集団で孤立する構造がここにある。
自分の意見を殺して、集団に加入する構造がここにある。

多様な人達が集まる大都市は違う。そこに集う人同士で、文化の違いを楽しみながら学んでいる。話題の切り口によっては誰だって少数派にも多数派にもなる。二元論には陥らないから同調意見の数は関係ない。

世界でも、地続きに隣国と接する地域や、貿易が盛んで多様な文化が交流する地域には話し合いをする土壌がある。

心を売って、立場を買う?
その行く末は破滅だろ
It's an omen.


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