カンボジア住むことによって、捨ててしまった大好きだった習慣
この週末は、家でダラダラ。
半分、横になって過ごしたと言っても過言ではない。
雨上がりに自転車でスリップして足を捻挫して、ちょっとだけ足をひきづっているからなのだろうか?
もしくは、久しぶりに友人とお酒を飲んで、気持ち二日酔いだったからかもしれない。
何はともあれ、ベットから起き上がりたくない。
ところが、寝まったら寝まくったで、ちょっと罪悪感に苛まれる。
週末を無駄にしたような、後ろめたさでいっぱいになるのだ。
だからだろうか?
寝ながら、本は読んだ。
本と言ってもスマホで読む、電子書籍だ。
本を読むと、頭が良くなった気がするし、成長したような錯覚を与えてくれる。
読書は、ダラダラしたいヤツにはとっておきの言い訳なのだ。
カンボジア住むことによって、捨ててしまった大好きな習慣がある。
それは、『本屋にいく』ということだ。
日本に住んでいた時は、週末に『本屋にいく』ということが、好きだった。
漫画や雑誌を立ち読みをして、新しく出版された本で世間のトレンドを掴む。
本屋の匂いも好きだった。
気がつくと足を運んでいるひま潰し。週末の憩いの場は、近所の本屋だった。
しかし、カンボジアの本屋は本屋であって、本屋ではない。本は申し訳程度に置いてはあるが、基本は文房具屋だ。
何より、日本語の本がない。(←当たり前。)
週末の現実逃避を埋めてくれる、私の思う『本屋』ではないのだ。
仕方ないので、ベットの上で電子書籍。
カンボジアの生活は、本はやっぱり『紙』じゃなきゃ、というこだわりを否応なしに、捨てさせた。
10年前、今ではすっかり死語になった自炊をした。
自炊(じすい)とは、自ら所有する書籍や雑誌をイメージスキャナ等を使ってデジタルデータに変換する行為。
私はカンボジアへ行くにあたって、手持ちの本を全て自炊した。専門の業者があり、自分の本を郵送すると、スキャンしてデータを送ってくれた。
iPadで読むために、手持ちの本は全部データ化して、全てを捨てた。
しかし。
その後、その本のデータを再度読むことは、ほとんどない。
自分の大切な手元に置いておきたい本を、デジタルで取っておいてもあまり意味がなかった。
そこから、私の中で『本』の意味や価値は大きく変わる。
電子書籍では、自分が好き本を買うのではない。
興味がない本でも、他人に勧められたり、ちょっとでも気に掛かる本があれば、すぐ、その場で買うことにしだした。
お会いした方の著書だったら、即、目の前で購入だ。
そうしなければ、カンボジアに住んでいると、本と出会う機会は圧倒的にないのだ。
だから、ちょっとでも話題に上ると、即買い。
基本的に、お金のことは考えない。
本の衝動買い症候群だ。
確かに、SNSやニュースアプリで、文字を読む機会は以前より、多いかもしれない。
放っておけば、一日中、スマホでダラダラ過ごすことは可能だろう。
しかし、なんだかんだ言っても、無料の文章には、限界があるんじゃないか、と思っている。
無料は、無料なのだ。
電子書籍でも、本を読むと、頭が良くなった気がする。そして、成長したような錯覚を与えてくれる。
たまには、本を読むべきなのだ。
たとえ、横になっていたとしても。
インド神話のラーマーヤナについて知りたくて、2冊ほど本を衝動買いした。
今まで知っていそうで、わかっていなかったラーマーヤナについてよく理解できた。
わかっただけではない。
オモシロくて、ハマってしまった。
ちゃんと理解した後のWikipediaは、楽しくて仕方がない。次から次へと、インドの神様や英雄たちの名前を調べていたら、キリがない。ダラダラスマホだ。
そして、なんだかんだとおすすめなのが、オリラジ中田さん。
もう悲しくなるほど、わかりやすい。
私が丸一日かけて読んだ本は、なんだったの???と、思うほどわかりやすく説明してくれる。
あぁ、なんて良い時代なんだろうか。
とはいえ、まぁ、これも、本を読んだから、より理解も深まった。。。ということに、しておこう。
他にも、ジャーナリズムの本も含め5冊ほど衝動買い。
充実した週末だったことに、しておこう。