#65 ラスベガス
"ラスベガス"を読了。
ポストモダン建築論の大家であるヴェンチューリを学ぼうと思い、本書をチョイス。
本書では「構造体を飾り立てるのは正しいが、装飾それ自体を建築してはならない」という指摘を複数繰り返し述べている。
合理主義・機能主義を軸とした近代建築が一大勢力のタイミングで、ラスベガスの事例を詳しく取り上げて、このような商業主義の建築物に対してもっと建築家は目を向けるように指摘している内容。
そして、本書における重要な概念として「あひる」と「装飾された小屋」がある。前者は彫刻的であると同時にそれ自体が象徴となる建築のこと。後者はサインなどに装飾された、本体は醜くて平凡な小屋のこと。ヴェンチューリは、近代建築の、空間や構造、プログラムからなるシステムが全体を覆っている象徴的形態によって隠され、歪められている様を揶揄し、「あひる」と表現する。また、「装飾された小屋」は、ラスベガスの商業建築に見られるような、コミュニケーションを目的とした不純でありながらとても生き生きした建築であると語っている。
特に印象に残ったのは下記の3点。
アルド・ヴァン・アイクは、内と外、公的と私的、特殊と普遍など、全く正反対のものを「対現象」と呼んだ
近代建築は、空間、構造、平面上の純粋な建築的要素を執拗に分節化することに没頭した挙句、その表現は空虚でつまらなく、無責任でさえある無味乾燥な表現主義になってしまった。
「構造体を飾り立てるのは正しいが、装飾それ自体を建築してはならない」
良書!
以下、学びメモ。
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・A&P駐車場は、ヴェルサイユ宮殿の庭園以来の広大な空間が現代に出現したものであるといえよう。高速道路と点在する低層の建物の間に設けられたこの巨大な空間には囲い一つなく、何の方向性もない。
→象徴が空間を支配し、建築は二の次になってしまようなランドスケープにおいては、空間的関係は形態よりもむしろ象徴によって成立しているので、建築それ自体も、空間における形態より以上に空間における象徴となるのである。そして建築は影が薄くなってしまう。
→★大きなサインと小さな建物という取り合わせは、ルート66の掟なのである。★
・ラスベガスは、砂漠の中の町の理想化されたものだと言える。1960年代頃にラスベガスを訪れることは、1940年代末頃にローマを訪れるのと似たようなことであった。自動車のスケールに合わせて構成された格子状の町と、一世代前の建築家の反都市的思潮に馴染んだ1940年代の若いアメリカ人にとって、イタリアの広場の伝統的な都市空間、歩行者のスケール、連続性を持った様式の混合などは、意義深いヒントと思われた。
・ラスベガスの道路地図を見ると、基本的には格子状を成しているが、その中に2本の斜めの道路があることがわかる。「メイン・ストリート」と「ストリップ」と呼ばれるものだ。
→ストリップには2種類の秩序の存在がある。一つは道路に付帯する要素の明白な視覚的秩序であり、もう一つはサインや建物の混沌とした視覚的秩序である。
→★高速道路上のゾーンには公共の秩序が、また高速道路上以外のゾーンには個人的な秩序が存在するのだ。二つの秩序は互いに溶け合って、連続と不連続、進めと止まれ、明瞭と曖昧、協力と競争、コミュニティと粗野な個人主義などを内包している。★
・カジノの天井の低い空間は、照明のおかげで新しい記念性獲得している。その結果、境界は曖昧となり、空間はどこまでも続いているように思われる。同時に、一体感も発生しているため、私たちは閉ざされた広場というよりは、夜の街のさざめく光の中に身を置いていることになるのだ。
・ラスベガスのサインは建物よりも、高速道路から目につきやすいような誇張された形をしている。サインは建物から離れて立ち、多少なりとも絵画的もしくは彫刻的であり、高速道路に直角に建てられたその位置、大きさ、形など通して自己の存在を誇示しようとする。
・★アルド・ヴァン・アイクは、内と外、公的と私的、特殊と普遍など、全く正反対のものを「対現象」と呼んだ。★
→それらは都市のあらゆるレベルにおいて不可分に絡み合っている。
・★近代建築は、空間、構造、平面上の純粋な建築的要素を執拗に分節化することに没頭した挙句、その表現は空虚でつまらなく、無責任でさえある無味乾燥な表現主義になってしまった。★
→皮肉にも、近代建築は、明白な象徴を用いることや、軽薄なアップリケのような装飾を拒否しながら、実は建物全体を歪め、一つの大きな装飾と化してしまっているのである。装飾を分節化にとって代えることで、近代建築は自らダック(アヒル)となってしまったのだ。
・建築家の関心は、どうであるべきかという原則論にではなく、実際にどうであり、今後どうしていくべきか、という点に向けられるべきなのである。建築家は、近代建築運動の時代に比べると今日では、より些細な役割に甘んじなければならないのである。しかしそのことは、芸術的観点からするとかえって、前途有望であると言えるのである。
・★おそらく今、建築における最も支配的な要素は空間であろう。空間は建築家によって創られ、評論家によって神聖化され、はかない象徴主義によって生じた空白を埋めてきた。抽象表現主義者の建築において、分節化が装飾を追い払いその後釜を占めたとするなら、空間は象徴主義を肩代わりしたものだと言える。★
・最近の近代建築は、形態を拒否しながら形態電話主義になびき、装飾を忌避しながら表現主義に走り、象徴を排しながら空間を崇めている。混乱とアイロニーとが、この不愉快なほど多様で矛盾を孕んだ状況の結果として生じている。私たちは近代の巨匠の形態を模倣することで、アイロニカルに独創性を謳歌している。
・★国家資源を社会に役立つ目的に向けて活用しようと望む私たち建築家は、目的そのものとその遂行方法について考慮すべきであり、容れ物として建築は二の次にすべきである。そうした方向転換は「あひる」ではなく「平凡な」建築を必要とするであろう。しかし、建築に費やす金がない時には、優れた建築的想像力こそが要求されるのである。★
・近代建築家が当然のように建物に付加された装飾を廃棄した際、彼らは建物自体を装飾と化してしまった。象徴や装飾の代わりに空間や分節化にかかずり合い、建物全体を一羽のアヒルに変形してしまったのだ。彼らは普通の小屋に安価で無邪気な飾り物を付加する代わりに、平面とか構造に、シニカルで高価な変形を加え、アヒルを生み出したのである。
→★「構造体を飾り立てるのは正しいが、装飾それ自体を建築してはならない」★