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「母親になって後悔している」オルナ・ドーナト

「母親になって後悔している」
このタイトルを一目見たときに読まねばならないと思った。心がザワザワした。と同時に中途半端な気持ちでは読めないとも思った。

それから何年か経ってしまった。
読むには勇気がいったからだ。私の核心に触れてしまうかもしれないからだ。

アマゾンの「読みたいリスト」に放り込んで数年。

「母親になって後悔している」

タイトルを見たときに心の中を見透かされたような気持ちになった。

そしてこの度、読むと決めた。

まずこの本の著書オルナ・ドーナトは「子どもを持たない」と決意したイスラエル人女性であり、社会学者であり、すべての女性が母親になりたいはずだという社会的期待と、母になることを価値ある経験とする評価に疑問を呈すべく、活動を続けてきた人らしい。

この本にインタビューとして掲載されている女性たちは

「今の知識と経験を踏まえて過去に戻れるとしたら、それでも母になりますか?」という質問に「ノー」と答えた人のみを対象に選んでいる。「一時期は後悔したけど、今は平気です」という人は含まれていない。現在進行形で苦しみの中にある母親たちの真実の告白だ。

訳者あとがきより


「母親になって後悔している」

まさに図星だった。そう、私は確かに後悔している。2人も子どもを儲けておいて、そんなことを思ってはいけない。だがしかし。

ここから先は誰かを不快にさせることも重々承知している。
私はとにかく生んでしまったからだ。

生んでしまったのに何を言っているのか?
生みたくないなら避妊すれば良かったじゃないか?という批判はさっそく想像できる。
もうこの地点で母親になったくせに何を言っているのか、という批判にさらされる。 

どこまでいっても交わることのできない、あちら側とこちら側の言い分だ。
欲しくて欲しくてたまらないのに授かることができない人に対して、私の後悔を書くことは、もしかしたら侮辱に値するのかもしれない。特に欲しいと思わず、タイムリミットと呼ばれている年齢になった人もいる。
欲しいと思っても1人ではどうすることもできない。
子どもを持つか持たないかには、ひとりひとりに多様な事情がある。

後悔は母になったことであり、子どもではない

本書インタビューより

話は複雑なんです。私は母になったことは後悔していても、子どもたちについては後悔していません。―――子どもができて母になったことは後悔していますが、得られた子どもたちは愛しています。ですからきちんと説明できることではないのです。―――私はただ、母でいなくないだけです。

本書インタビューより

読み始めて、私はどうしよう。と思った。
私は自分のパンドラの箱を開けようとしている。

以前に私の気持ちを記事にしたものがある。

私は結婚して2年目に特に希望したわけでもなかったが子を授かり、「女に生まれたんだから普通のこと」「女は子どもを生んで一人前」のレールに乗っかってしまった。
子どもを持つことに大した理由は無かった。
いわゆる自然な流れ(と思っていた)でできたのだ。

以来、私は心の奥底でいつも疲弊していた。

最初の子がお腹にいると分かったときの一発目の感情は「お先真っ暗…」だった。私はこの妊娠により、この先少なくとも20年以上自分を殺して生きねばならないことを理解してしまった。

「どうしよう…」「とにかく喜ばないといけない」

生むしか選択はない。せっかく授かった命だ。欲しくてもできない人もいるのだ。広い目で見てこれは人間の営みを続けるには地球には必要なことだ。人類が人類でいるために人間は必要なのだ。植物も人間も世代交代を繰り返して地球にいる。生もうが、生むまいが、生まれた動植物で運営されているのが地球なんだ。

どうせ生むなら、間を空けずに続けて生んだほうが子育て期間が少しでも短縮される!という謎のバイアスにより、長男を生んだ2年後に妊娠→稽留流産→これ以上空けたら自分がしんどい→早く生まないと→3つ違いで次男出産ということをやってしまった。

嫁としては100点だ。私は子孫を残した。

この文章に嫌悪感を抱く人もいるだろう。

女には色んな壁がある。生殖において人間が人間を産めるのは女だ。男は精子の提供しかできない。男と女の間には物理的に(感情面を含めて)超えられないものがある。

子どもが欲しい人
子どもが欲しくない人
子どもを欲しいが環境的に無理な人

何故、女だけにこのような分かれ道があるのか。人間の脳がこれほど進化してしまい、生き物として生むことを選べるようになってしまった。避妊という手段を手に入れた。脳が進化したため、「子ども、どうする?」と生殖本能にストップをかける思考が生まれた。

ちなみに後悔は親としてのことであって子どもの存在のことではありません。
――――そこは私にはとても大切な区別です。素晴らしい子なんです。――――後悔は親としてのことであって、私自身が母になる必要を感じなかったのに、こうなってしまった、という事実にあります。

本書インタビューより抜粋

母は母であり、常に母としてのふるまいが求められ、そのアイデンティティから逃れることはできない。―――何十年もの間、学者や作家はあらゆる母が主体として、他人の人生に溶けこんでアイデンティティを失ってしまうのではなく――認識される道を切り開こうと努めてきた。――特に女性は他人の人生に溶け込むことが正しい道だと言われることが多いのだ。

本書より

3年後に下の子が生まれ、私の家族は完成した。
もう誰からも何も言われることもない。
いや、たぶん子どもがいなくても誰も何も言わなかったのだ。結婚してしばらくすると「まだ?」と悪気なく聞かれることがある。その無責任な言葉を鵜呑みにするから悪いのだ。

これから20数年後、私は再び自由な時間を手に入れるまで、母親の職務を全うするしかない。子どもに愛を与え、人の気持ちのわかる子に育てる必要がある。できる限りのことをやる。とにかく育てるのだ。作りたくもないママ友を作り、やりたくない送迎をし、弁当を作り、社交性があるように見せかけ、良い母にならねばならない。

子どもは愛すべき存在だった。それは間違いない。

そして、その20数年後が来春である。
私は心からの自由を手に入れられるのか?
母親という職務から解放されるのか。

否。

私が母である事実は消えない。死ぬまで私はあの子たちの母なのだ。

行動の自由はもう何年も前から手に入れており、私は手の離れた子どもに自分の行動を制限されたことはない。

だから私がずっと感じている自分の思いは薄まっている。けれど、家族の行事や何かが起きたとき、その思いはその度に復活する。

この記事の根源になっていることは私が母親であるからだ。

この本の中で祖母の立場になった数人の女性のインタビューがあった。

私は世話を焼いています。電話をしたり、心配したり、質問をし、関心を持ち―――家族らしいことをします。お芝居みたいに。孫に会いに行くと関わりを持ちますが、実はあまり興味がありません。――いつになったら終わるのかしら、ベッドに戻って本を読んだり、素敵な映画を見たり――そのほうが私にとって興味深く、私に合っていて、私らしいのです。

2人の母であり祖母のティルザのインタビュー

普通のことはしています―――誕生日には贈り物を届けますし、時々様子を見に行きます――私は標準的な人間なので、標準的なことをするのです――おばあちゃんがやることであれば、いくらかはこなしています。でも大きな必要性があるとは感じていません。

40代の子ども2人の母、祖母であるナオミのインタビュー

まさに私じゃないか。彼女たちは普段の生活で「母親」として「祖母」としてのモデルケースを演じている。母親や祖母は子どもや孫のために心配するのが当たり前であるという社会規範で縛られる。

素晴らしい息子です。私の後悔はそのこととは何の関係もありません。完全に無関係です。

1人の子どもの母、カーメルのインタビューより

うまく説明できないが、このカーメルさんの言葉は全くそのとおりと言うしかない。

生まれてくれてありがとうという気持ちと対で母親になりたくなかった気持ちが同時に存在するからだ。

そして、この感情はあらゆる批判の対象になる。一般的に子どもを持つことは何にも代え難い「神聖なこと」だからだ。

・子どもを生んでおいて、何を言うか。
・母親がそんな風に思うなんて何か家庭に問題があるに違いない。
・産後うつになっているのでは?
・今は大変な時期だからそう思うだけよ。
・過ぎてしまえば何とでもなる。
・もう1人生めば子ども同士で遊べるよ。

肯定派に言われそうな言葉を上げてみた。
こういう言葉を発する人はたぶん母親である自分を自分の人生として生きられる人だ。

母になって後悔しているのに、なぜ2人目や3人目の子どもがいるのか。母になったときにしばしば出てくるのがこの疑問である。―――後悔しているにもかかわらず、もう1人子どもを持つと決めた母もいる。いずれの場合も決断の根底にある理論は―――さまざまな方法で今後の被害を最小限に抑えようというものだった。

本書より

2人の子どもを立て続けに出産しました。なるようにしかならない。と自分に言い聞かせていたのです。―――出産を済ませてしまえば、自分が本当に興味があることを再開できるからです。

2人の子どもの母、祖母。ナオミのインタビュー

以下、著者の言葉の抜粋。

私がこの問題に特別な関心を持っているのは、自身が母になりたくない女性であるためだ。と何度も批判されてきた。

私自身は母になりたくない気持ちを正当化する必要があるとか、解決すべき問題であるなどと感じたことは一度もない。

同時に心から母になりたいと望む女性を批判するつもりもない。

誰の母でもないことが、今もなおこれほどまてまに困難な道であり、ステレオタイプと制裁に悩まされる選択であるという事実は、選択肢が実質的に存在しないということだ。
非母(ノンマザー)への道はいまだに閉ざされたままなのだ。

作者の言葉

母親と同時に非母(この著書でいうノンマザー)も悩んでいるのだ。

たぶん、私が生きている時代に本当の意味での個人主義は認められないと思う。
選択の自由が尊重される時代が来れば良いと思う。そして、皆、まずは自分以外のことにあれこれ言うのはやめることだ。


哲学的な視点からみた人口減少の記事を見つけた。もし興味があれば読んでほしい。

哲学の次元で話をすれば、本来は『なぜ少子化を解決しなくてはいけないのか』という問いがあってもいいはずだ。日本人が減っても、他の国が栄えれば人類としてはそれで構わないのではないか。また人類はそもそも存在すべきなのか。急な変化は困るかもしれないが、ゆっくりとなら人類は消滅してもいいのでは。そう考えることもできる。

日経web 子どもを持たない人生より

私も何故、人口減少が悪いことなのかについては疑問を持っている。
人口が減ったのなら、社会の規模も減少させれば良いし、大きなものは小さくすればいい。何故、拡大することばかり(出産含め)考えるのか。人口減少に歯止めがかからないのは皆の意思だ。

子どもを生まなくなってきている。

この事実が何を意味するのか。皆、気付いてしまったのではないか。子どもを生み育てることが当たり前ではないことに。少なくとも私はそう思っている。

「子どもを愛している。それでも母でない人生を想う。」

この本を読めて良かった。わかりやすい日本語で書いてくださった訳者の鹿田昌美さんに感謝を。

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