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ギャラリーオーナーの本棚 #10 静かな反逆児 『良寛』

前回の記事に書いたインドの聖人ラマナ・マハルシのことを考えていて、ふと思い出したのが、江戸時代後期の僧・良寛です。

良寛といえば書や詩歌を思い浮かべる方も多いと思います。俗世間を離れて破庵に暮らし、菩薩のように穏やかに風流な人生を送った人という印象かもしれません。私もなんとなくそんなイメージでした。しかしこの本を読んで、その印象を改めることになりました。良寛はむしろ反骨心の強いアウトサイダーだったのだと。

反逆児の目覚め

良寛は、1758年、越後国出雲崎(現在の新潟県出雲崎町)の地元の名主・山本家の事実上の長男 "栄蔵"として生まれます(事実上、というのは、実際には栄蔵の前に生まれた男子がおり、幼児期に死亡したという記録があるため)。山本家は、出雲で廻船問屋を取り仕切るほか、神社の宮司も務めるなど、有力な家柄でした。
栄蔵は15歳で元服、16歳で名主見習役となります。しかし栄蔵は利発ではあるけれど、のちの詩歌にも表れているように細やかな感受性の持ち主で、人の上に立って家業を盛り上げるような性格ではなかったようです。栄蔵は出家を願い出ます。家業から逃れたいという気持ちもあったかもしれませんし、当時の社会情勢として政治腐敗が横行し、度重なる天変地異によって庶民の苦しみが広がっていたことにも心を痛めていたのかもしれません。名主の長男でありながら出家の意思を曲げなかったところに、強情さを感じることもできます。

自ら懼怖を遺すなかれ


18歳で地元・出雲崎の曹洞宗光照寺で修行を始め、22歳で岡山・倉敷の円通寺に入ります。円通寺での12年の修行を終え、恩師・国仙和尚の死をきっかけに、"大愚"・良寛の旅が始まります。なぜ寺に住院せず、旅に出たまま生涯を送ったのか。
本書の冒頭に、著者の水上勉が書いています。

自ら大愚といい、僧にあらず、俗にあらずともいわれた和尚が、なぜえらい師匠について禅境を深めておられたのに、寺院に住まわれなかったのか。経もよめ、書もかけ、詩歌もつくれた人が、せめて、どこかの山村の、陽当たりのいいお寺の住職でおられても不思議でないのに、寺から逃げておられる。亡くなられたのも、在家でだった。不可思議なお坊さまだ。

『良寛』水上 勉 著 / 中公文庫

水上勉は良寛がなぜ寺に住まわず生涯を在家で終えたのか、その理由に着目しながら本書を書き進めました。そこには、当時の藩政下の寺院の堕落ぶりに対する良寛の激しい憤りがあったようです。権力や金銭への執着だけでなく、身分差別に加担するなど、仏道どころか人の道にも外れた寺院の在りように、良寛は我慢がならなかったのでしょう。寺院僧を批判する良寛のこんな痛烈な漢詩が残っています。

ただ口腹のための故に
一生外辺に騖(は)す
白衣の道心なきは
猶(なお)これ恕(ゆる)す可し
出家の道心なきは
その汚れやこれを如何にせん

良寛詩集『草堂集』所収「僧伽」より抜粋

しかし良寛は、他人を批判するだけに及ばず、自らと後世に続く者たちへも厳しく律する言葉をこの詩の最後に書き連ねています。

いま、われねんごろに口説するも
ついに好心の作(さ)にあらず
いまよりつらつら思量して
汝がその度を改むべし
つとめよや、後世子
自ら懼怖(くふ)を遺すなかれ

良寛詩集『草堂集』所収「僧伽」より抜粋

最後の「自ら懼怖を遺すなかれ」は、内心に不安や危惧を遺すな、という意味。厳しさや潔癖さの中にも、「良心を痛めることは自らのためにもならない」という良寛の人間愛も伺えて、心を打ちます。

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