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【書評】"親子愛"の本質とは――『琥珀の夏』

※本記事には物語の核心に触れる部分があります。

 子どもの発育・発達過程で欠かせないのが「愛情」である。親や祖父母など、周囲の大人たちが子どもに愛情をめいっぱい注ぐことで、健全な成長が促される。

 では、この「愛情」とは具体的にどのようなものを指すのだろうか。また、愛情を育むうえで欠かせない要素とは何か。本作『琥珀の夏』は、この「親子愛」(便宜上「親子」と表現したが、これには祖父母・親族など大人全般を含んでいる)の本質について、ストーリーを通して思索を展開している。

過去と現代の2軸で「親子愛」を描く

 弁護士の近藤法子は、小学生時代にある団体の夏合宿に参加した。「ミライの学校」と名乗るその団体は、世間からカルト集団と目されており、飲料水への不純物混入騒動を起こして以来、活動の規模が縮小していた。そんな「ミライの学校」の旧敷地内から、未成年とみられる白骨遺体が発見される。法子はこの遺骨の調査に関わることになり、これを機に幼いころに過ごした「ミライの学校」での日々を回顧することになる――。

 本作では法子の幼少期を描いた過去パートと、弁護士であり幼い子を持つ親として、「ミライの学校」で起きた事件の調査に関わる現代パートの、二つの時間軸が入り組む形で進行していく。過去パートで描かれるのは、法子とミカという少女を中心とする「ミライの学校」での生活の模様だ。

 世間からはカルトと見られているとはいえ、「ミライの学校」の目的はあくまでも、宗教じみた思想を植えつけることではなく、さまざまなレクリエーションを通じて人格陶冶と良好な人間関係の構築に努めることである。引っ込み思案な性格の法子もここでの生活に馴染み、ミカをはじめとする同世代の子どもたちと親交を深めている。

 他方、現代パートは、法子の「弁護士」としての面と「母親」としての面が入り混じる形で進む。白骨遺体の調査にかかわる一方、娘の通う保育園が決まらないという問題を抱える法子。「ミライの学校」に関する一件の調査と保育園の入所問題。両者の板ばさみに遭いながらも、仕事と家庭の両立に勤しむ法子の視点で現代パートは進行する。

 過去と現在、二つの時間を行き交いつつ本書があぶりだしているのは、有史以来受け継がれてきた親子(大人と子ども)関係の本質である。それはすなわち、「親子で過ごす時間」の尊さ。そしてそれは、冒頭の問い――親子愛の本質に迫るうえでのヒントでもある。

いとおしく思うこと

 本作の主要人物である法子とミカ。この2人は、「親子で過ごす時間」について何らかのジレンマを抱えている、という共通点がある。

 まず、過去パートのキーパーソンであるミカ。「ミライの学校」は、法子のように夏合宿だけ参加する者もいれば、ミカのように親元を離れ、子どもたち(と「先生」と呼ばれる数人の大人たち)で集団生活を営んでいる者もいる。親元を離れて暮らすミカは、実のところ両親を恋しく思っているようで、親の元に戻りたいという気持ちをことあるごとに吐露する。そして、親子愛の欠如に起因するこの感情が、のちの白骨事件の行方に大きく関わってくる。

 一方の法子などうか。既述のとおり、現代パートでは事件の調査と同時進行で、娘の預け先探しに苦心する法子の様子が描かれている。保育園に子どもを預けるということは、「親子で過ごす時間」の大部分が失われることにほかならない。

 子どものためにも仕事を辞めて育児に専念する時間をつくるべきか。しかし、仕事一筋だった法子にとって、時間ができたとしても育児に集中できる自信がない。仕事と家庭の板ばさみにあうなか、法子は今後の生活を悲観的に感じてしまうのだった。

 この法子の逡巡に、「親子愛」の本質に迫る糸口が隠されているように思う。それは「親子で過ごす時間の長さ」と「親子愛」は比例するのか、という問いである。

 親子が長い時間を共有すればするほど、果たして親子愛は醸成されていくのか。結論から言うと、そうとは言い切れない、と思う。極端な例かもしれないが、親が常に自宅にいるものの、子どもに対して日常的に暴力を奮うような家庭では、親子愛は決して育まれない。単に長い時間を共有するだけでは親子愛の醸成には不十分なのだ。

 では、そこに何が必要なのか。私なりの回答は「子をいとおしく思う気持ち」である。「無償の愛」と言い換えてもよいだろう。これに「親子で過ごす時間」を掛け合わせることで、親子愛が醸成されるのだ。公式で表すなら「親子愛=親子で過ごす時間×子をいとおしく思う気持ち」。どちらかが0であれば親子愛もゼロだし、たとえ「時間」が小さくても「気持ち」が大きければ、その分親子愛も大きくなる。

最終的に法子は子どもの預け先を見つけることができるのだが、その過程で「親子愛」とは何かを自覚する。そしてそれは、ミカやその同級生といった「ミライの学校」で親しくなった子どもの両親にも言えることであったと、痛感するのだった。この模様は本作の第八章で緻密に描かれている。

藍子(注・法子の娘)と離れるための保育園探しに必死になって、それが見つかったことでこんなにも安堵する。娘を預けることと、我が子への愛情、その二つは話が別なのだと思いながら。

『琥珀の夏』P495

 かように、本作で描かれているのは「親子愛」という普遍的なテーマであり、「親子で過ごす時間」と「子をいとおしく思う気持ち」を掛け合わせた結果、親子愛が醸成されていくという不変的な摂理である。

 言われてみればごくごく当たり前のことかもしれない。しかし、「言われてみれば当たり前」とは「大切だけれど日頃意識できていない」の裏返し。本作はその「大切」で「当たり前」なことを再認識させてくれる作品だった。


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