登呂遺跡(静岡県静岡市駿河区)
静岡出張が決まってから「さて、静岡でどこ行くべ?」と考えた時に、必ず頭に浮かんできた遺跡
そう、登呂遺跡ですね!
美味しそうな名前の登呂(トロ)遺跡
教科書にも載っている遺跡なので、誰しも聞いたことくらいはあるのではないでしょうか。
そんなトロトロ遺跡ですが「聞いたことあるけど良く分からなーい」って人のために説明しましょう。
弥生時代の水田跡の遺構が初めて確認された遺跡。
大量の土器・木製品などの出土品と共に、住居跡・倉庫跡などの”居住域”と”水田域”が一体となって確認され「弥生時代と言えば水田稲作」と言うイメージが定着する契機となった遺跡。
その結果「弥生時代と言えば登呂遺跡」と言うことで、必ず教科書でも紹介されていた遺跡なのであります。
さて、そんな登呂遺跡が発見されたのは太平洋戦争の真っ盛り、1943年のことでした。軍事工場を建設する際に発見されたそうです。
その後、戦後を迎えて間も無く「考古学」「地質学」「人類学」などの各分野の学者が加わった、”日本で初めて”の総合的な発掘調査が行われたのです。
この「戦後間も無く」と言う時期も重要でありまして、この登呂遺跡の発見から発掘調査に至るまで、戦後の日本国民が「日本」と言う国について改めて考えるキッカケとなる、軍国的では無い新たな”愛国心”を育むキッカケとなる大きなプロジェクトだった(と思う)ので、それはそれは全国的に注目を浴びることとなり、当時日本中に一大考古学ブームが沸き起こったそうです。
かの「日本考古学協会」も登呂遺跡の発掘調査をキッカケに発足したのです。
あと、個人的に大きなキッカケとなったなと思うのは・・・
戦前の日本では、天皇に繋がる古墳やら何やら以外の遺跡は重要視されておらず、調査を行ってもその出土品は東京帝国大学や東京の博物館に持って行かれてしまい、現地には何も残らないのが常だったのです。
しかし、そんな慣習をぶち壊したのも、この登呂遺跡
戦後間も無くの発掘調査の段階で、既に「将来的な史跡公園としての整備」や「各種出土品を展示する博物館の建設」を行う旨が、発掘調査講演会の規則などの文書に「調査の目的」として謳われているのです。
なんだか難しく語ってしまっておりますが
今、全国に「遺跡(史跡)公園」やらそれに併設された博物館・資料館があるわけですが、そんな物はあり得なかった時代に、遺跡の保存や出土品の公開と言う未来を描いた初めての、画期的な遺跡なのです。
登呂遺跡のおかげだぞー
さて、そんな登呂遺跡も最近では教科書から消えつつあるらしいのです。
その理由としましては、登呂遺跡以外の全国の遺跡の調査結果などを基に「弥生時代」の研究が進んで行く中で、様々な「弥生観」が出てきたことが理由に挙げられます。
例えば、佐賀県の吉野ケ里遺跡では発掘調査により、弥生時代に階級制度や争いがあったことが判明していたり、福岡の板付遺跡では日本最古の水田跡が見付かっています。
教科書としては「農耕の始まり」や「ムラからクニへの変化」に注目し、解りやすく記載して行くことを求められる中で、以前のように「登呂遺跡」だけで弥生時代を語ることが出来なくなった。
結果、登呂遺跡の扱いが変わり、教科書からも消えて行っていると言うことです。
とは言っても、この登呂遺跡は”国の特別史跡”です。
弥生時代の遺跡としては日本で三箇所のみなのです。(他二つは「吉野ケ里遺跡」と「原の辻遺跡」(魏志倭人伝「一支国」(いきこく)の王都と目される遺跡)
有名遺跡巡り大好きなミーハーな僕なんかには堪らないわけなので、今回も尻尾を振りながら意気揚々と訪問しました。
まさかの、駐車場に長蛇の車列
どんだけみんな登呂遺跡好きやねんと
やっぱ有名遺跡は違うなぁ・・・と感慨深くなりました。
そして、駐車場のおっちゃんに
「さすが登呂遺跡ですね!いつもこんなに多いんですか!」と聞くと
「違う違う、今日遺跡の広場でお祭りやってるから!」
・・・まさかの登呂遺跡で「登呂まつり」が行われておりました!
(タイミングが良いのか悪いのか)
確かに物凄い人で、遺跡内で上手に写真を撮ろうと思っても人が写り込みまくると言う災難に遭いましたが、遺跡の雰囲気はしっかり楽しめたのでヨシとします。
博物館にも行きましたが、元々「凄い出土品が出た!」とか言う遺跡ってわけでは(当時では大発見だったわけですが)無いので、展示品としてはインパクトが薄いですが、戦後の発掘調査の様子とかその辺りの展示は興味深く見ることが出来ました。
展望階からは静岡に来て初めての富士山を眺めることも出来ました。
そんなわけで、人混みの中でトロトロになるほど登呂遺跡を満喫した僕なのでした。