自由について
今日は
5月3日。
明治維新から帝国主義の流入を受けて、人間としての抵抗が湧き上がり、大正で芽吹いた自由と尊厳を求める萌芽。
昭和になり、戦争にいろんな価値観を絡め取られて利用されて奪われた後で、再び、自由と尊厳を求める人間らしい要求が、人々の生活の中に生き始めた日だ。
今日何を読むのか、ずっと考えていたのだけれどなかなか決まらず、結局自分の家の本棚の前で目をつぶってルーレットした結果、私の指は鶴見俊輔のところで止まった。
樋口陽一と鶴見俊輔と茨木のり子は、事あるごとに読むことになっているらしい。
アイデンティティ
人には、いろんな側面がある。
私は、わりと一人が好きだけどかまってほしいタイプで、保育士で、音楽をやったり、スケボーで転んだり、自由と平和のために活動したり、酒を飲んで酔っ払って迷惑をかけたり、誰にでもすぐ話しかけたり、誰にも見つからないように過ごしたり。
シスジェンダーの女でヘテロセクシャルらしい。
マジョリティ要素の多いアイデンティティで生きていて、だから社会の中で困ることは結構少ない。女であることが、めちゃめちゃ大きいマイノリティポイントになるような社会ではあるけれど。。
例えば今、目が見えなくなったら、どうなるだろう。
まず、一人暮らしできるのかな?
自転車通勤は無理だから、ギリギリまで寝るのをやめてバスと徒歩で通勤する。
買い物をする時、どうやって選ぶんだろう。食材なんて特にベタベタ触るわけにもいかないし。音声入力でネットで色々買うのかな。
保育の仕事は、たぶん難しいな。
ギターやドラムは感覚的にやれそう。
スケボーは、何にもない広いところで誰も周りにいないのを誰かに確認してもらわないときっとできない。白杖で滑ってる人の動画は見たことあるけど…。
どうやって人と友達になればいいんだろう?距離感とか掴めなくて常にめちゃくちゃな近さで話しかけたりしてしまいそう。。
目が見える人の暮らしやすさに寄った社会のシステムや街づくりの中で、ありのままで生きていける自信、ないな。
社会の造りがあらゆる場面でマジョリティに寄っているから、自分の特権性に気づくのってすごく難しい。意識しているときはわかっても、無意識に「慣れた」やり方で振る舞って、人を傷つけたり、阻害したりしてしまう。
言葉遣い
最近は自分が歳を重ねたからなのか、言葉の新鮮味が薄れてしまい、内容的にはいいことだなと思っても、“響く”ような感覚を持てずにいる。
それはまた、クソみたいな政治家や中立主義者の手によって、「希望」とか「多様性」とかそういう言葉を、意味のないものに仕立て上げられてしまっているせいでもあると思う。
西荻窪には、店主の趣味や意向が多分に発揮された選書の、小さな本屋がたくさんある。店内のコーナー分けやZINEの取り扱いも面白くて、小さな本屋なのに長居できてしまう。
そういうところで本を買い、店主と少し会話し、気になる本を少しめくって見てみると、心が動く感覚が戻ってくる気がしている。
矛盾
保育を振り返る時もそうだけど、私は自分の言葉や行動を振り返る時に、必ず民主主義やその前提になる個人の尊重について考えている。
大事にしたい価値観や理念を持っているのに、無意識だとうっかり相手の尊厳を傷つけたり、理不尽な要求をしてしまうこともある。
例えば保育なら、子どもの行動を追い立てることにならないように、時間配分や個別の配慮や環境設定を準備する。準備はするのだけど、見通しが甘いとやっぱり大人の理不尽な都合で子どもを動かすようなことになってしまうか、生活が成り立たなくなる。子どもが主体的に考えて行動した上で生活を成り立たせるには、心理的安定性の担保された環境を大人が作らなければいけないのだ。
こういう、保育が大切にしている考え方を、社会を作って生きていく人間の営みの全てに組み込みたいと私は思うし、せめて私が誰かと協力して物事を進めたり、日々の生活を営んでいく中では、ずっと意識しておきたい。
理想と現実にはいつもギャップがあるものだけど、でも、ねじれて矛盾するのは勿体無くて、どうせ合わせるなら理想の方に合わせるように日々を積み重ねた方が、良くなる。
つまり、「現実が厳しいから憲法を変えて現実に合わせよう」というネガティブな考えの元では辛い現実は何も変わらないから、「現実が憲法の理念に近づくように施策を練ろう」というポジティブな考え方のもとで現実を良くしていこうよ、ていう話。
あれ、そんな話だったっけ?
そんな話だと思うよ、憲法記念日だし。
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