【エッセイ】明治国道でたどる東海道 序 #1 日本橋 点とオブジェクト《近世編》
日本橋という原点
広重の浮世絵に描かれた弧を描く木橋の日本橋は過去のものとなった.今は明治44年(1911)に竣工した重厚なルネッサンス調の石造の近代的橋梁が日本橋川に架かり,その四辺は麒麟と獅子のブロンズ像によって護られている.
景観を損ねているという首都高も夜になると昼白色の天蓋に変わり,上階層の首都高の街路灯の光は間接的に漏れ広がる.デジタルスチルカメラで撮像されると,その受光素子CMOSの特性によってであろうか,白色光の中の青色の波長帯が強調され,図らずも現像した写真の夜空は蒼空へと変わる.
その降り注ぐ光の中,両翼を広げて今にも空に舞い飛びそうな姿をしているのは,かつての道路元標をモチーフにしたオブジェクトだ.
その支柱の鉛直方向の真下は日本橋の中央部に位置し,その点(ポイント)には日本国道路元標と刻まれた直径30cmほどの真鍮製の円形プレートが埋め込まれている.元標は道路の起点を表すオブジェクトだ.この点より道が始まり,道程(みちのり)はこの点から測られる.
世界的にみても橋の中心がその国の道路の基点として定められているのは非常に珍しい.
かつて,ヨーロッパ大陸とアフリカ北部を支配したローマ帝国.すべての道はローマに通じるとするイタリアの道路の基点はローマのカンピドーリョ広場にある.
中世に世界を席巻した大英帝国・イギリスのそれは,ロンドンのトラファルガー広場に面する騎馬像にある.
いずれも広場の中心とした部分にその定めをおいている.橋のような二方向のみで制限がかかるよりも,道の四通八達を考えれば,360°の空間自由度をもつ広場が基点となることは理にかなう.
広場でなくともその国の顔となる街路や広小路の十字路であってもよい.二本の線が交われば,その交点が点となる.東西南北の方位のように区画があるならば,その部分は中心として認識される.
永続的な基点を保証するには,また,橋はあまりにも儚い.一つに,橋は戦争によって破壊される対象物となるからだ.
攻め手は,戦略上,橋を攻撃目標とすることは古来から一貫して行われる.守り手にしても敵の進入を妨げるため,自らの手で橋を落とすことを考慮に入れている.
幸い,江戸期においては戦国時代のような内戦はなくなったため,人為的に日本橋が落とされることはなかったが,古今東西,戦争によって攻撃・破壊されて失われる橋は多い.
橋が失われるのは何も有事にあってのみではない.
日本の場合は,国内における紛争による戦災よりも,自然災害による人命と資本の喪失が圧倒的に上回る.
大石久和氏の『国土学再考』[1]の言を借りれば,
このことは,多くの日本人が2011年の東日本大震災を目の当たりにし,日本の国土の持つ宿命として深い悲しみとともに心に刻まれることになった.
加えて,木造建築は火災による焼失の危機とは絶えず隣り合わせだ.日本橋の大規模な架橋は13回を数える.そのうち,実に6回は全焼によって焼失の憂き目にあっている.(その他,半焼による修理などの仮橋を含むと19回とされている).
最初の焼失は明暦3年(1657).世に言う「明暦の大火」によって紅蓮の炎に包まれ全焼した.
明暦の大火による死者10万人とも推算されており,江戸期を通じても最大級の火災となった.死者の規模からいえば,昭和20年(1945)の東京大空襲に匹敵することから,その規模を推し量ることができよう.
また,この火災では江戸城の天守閣も灰燼に帰し,再び天守閣を構えることにならなかったことは知られている通りだ.
このような橋の脆さや刹那的な存在と知りつつも,徳川幕府は「橋」を原点に定め,また定め続けた.その決定に至るまでの記録を残していない.これは大きな「謎」といえるのだ.
江戸期に元標なる「オブジェクト」は存在したか
日本橋の代名詞ともなっている「日本橋が五街道の起点となった」という表現がある.これは正しくはあるものの,どことなく一つの疑問が脳裏の裏で引っ掛り続けていた.
日本橋の場合は北詰と南詰だけでも橋長約50mの差がある.橋とはいえ基点が橋の中央だったのか,それとも橋の袂である橋詰であったのか.
無論,今の日本橋の中心が基点であることは,江戸時代から脈々と継承されてきたからであろう.では,日本橋の「中央」を原点とし街道の起点とする定めがあったのだろうか.
そのような視点をもとに,日本橋にかかる当時の文献収録が編纂されている『東京市史稿』[3]を参照しながら,日本橋の起点を読み解いていった.
まず日本橋が架橋されたのは関ケ原の役の3年後の慶長8年(1603).当時,まだ日比谷入江の造成が間もない頃であったため,人家を集めるには至っていなかったのであろう,北関東・東北方面に抜ける道は限られ,新しく流路を整えた日本橋川にかかる橋は,この日本橋が唯一とのことであった.
その日本橋を街道の起点としたのは,『東京市史稿』では翌年の慶長9年2月4日と比定している.
これだけ日付も明らかであれば公文による明確な通達・通知が行われ,その史料が残されていてもよさそうなものだ.ところが,『東京市史稿』で収録されている関係文書は,すべて「伝聞」による記録となっている.
当時の文書として,『慶長見聞集』,『当代記』,『慶長年録』,『家忠日記追加』,『落穂集』,『上杉年譜』などを読む限り,いずれの文献でも日本橋を起点としたことは記されているが,「中央」を原点に定めたとした類の記述はない.
では,日本橋の起点を示す「元標」を示すオブジェトは設けられたのだろうか.『東京市史稿』の記述の底本となっていると思われる『当代記』が詳しく,次のようにある.
ここで里堠というのは「一里塚」を指す.その一里塚についても五街道ではなく東海道,東山道,そして北陸道の三街道について修繕をしつつ,日本橋を原点として現代のキロポストに相当する里堠を築いたことになっている.
街道の各所には松や榎といった樹木が植えられた例が多い.しかし,その原点の日本橋に何かしらの元標(オブジェクト)が建てられたという記録は,この『当代記』を含め,他の文書でも残されていない.
一里塚については諸大名に設置することを命じているものの,日本橋に起点の目印となる元標を設けた様子は見受けられないのだ.
また,一里塚を築かせた街道筋の列記されている内容が,各文書で大きく異なっていることに眼が止まった.関係文書に記載されている街道名をまとめると次のようになっている.
ここで「東山道」は中山道と同義で,「越後海道」は北陸道と同じ道筋と考えられている.その前提の上で眺めると,幾つかの特徴が浮かび上がる.
このように見ると,慶長9年(1604)の段階では「五街道」の起点というよりも,一里塚を設けるにおいて,その起点が日本橋に定められたことが諸藩に伝わったと考えるのが適切なのではないだろうか.
また,もう一つの新たな疑問は北陸道(越後海道)の位置づけだ.ここに日本橋を起点に一里塚を設けたとなれば,果たして,どのようなルートを想定していたのか.
古代の律令制度による五畿七道による「北陸道」は,京を起点として,若狭,越の地方の行政区分への官道が設けられたルートを指す.今でも京都と新潟を結ぶルートを想起するもので,東京(江戸)を経ることにはなっていない.
北陸道にも現存している一里塚がある.もし,大胆な仮説をたてることが許されるならば,慶長9年(1604)の段階で,北陸道のルートには2つの可能性が考えられる.
北陸道は五街道から外れていることから,二番目の仮説が支持されるのではないかと考えるが,あくまで仮説の域にとどまる.ここでは,まだ未解明なことがあることとして書き留めておきたい.
最後に,日本橋の中心に元標なるオブジェクトが設けられなくとも,人々の間では,橋そのものがオブジェクト化して語られた節があったのではないかと考えている.
元禄4年(1691)に徳川綱吉との謁見のために江戸に上ったエンゲルベルト・ケンペルというドイツ人医師は,次のように日記を書き留めている [4].
これは,当時,長崎に居留していた外国人でも周知されるほど,日本橋が日本の街道の中心であることが広く日本全国に認知されていたことを示している.
日本橋=道路の原点であることが人口の膾炙を通じて広まってゆく過程において,橋そのものが元標化して認知されたことを示す重要な記録だ.
(つづく)
参考文献
[1] 大石久和:『国土学再考 「公」と新・日本人論』,毎日新聞社,2009
[2] 東京印刷株式会社 編:『日本橋志 開橋記念』,東京印刷,1912
[3] 東京市 編:『東京市史稿 市街篇第2』
[4] エンゲルベルト・ケンペル (著),斎藤 信 (翻訳):『江戸参府旅行日記 』,平凡社 ,1977
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