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国道156号 さくら道

写真は20年前のフィルムをデジタル化しているため低解像度であることご容赦ください
起点 岐阜県岐阜市
終点 富山県高岡市
重要な経過地 岐阜県羽島郡岐南町 関市 美濃市 同県郡上郡八幡町 同郡白鳥町 同県大野郡荘川村 同郡白川村 富山県東礪波郡平村 同郡庄川町 砺波市

国道156号という道

中京圏と北陸とをつなぐ国道には3つある.一つは名古屋を起点としたかつての一級国道で富山に至る国道41号.もう二つは岐阜を起点としつつ高岡に向かうこのエッセイの主体となる国道156号,そして起点は同じ岐阜にしつつ福井県にまたいで金沢に至る国道157号の三路線.それぞれの国道ならではの表情がある.

加えて,ここに東海北陸自動車道の開通により,四本目のアクセスが加わった.東海北陸自動車道は国道41号に並ぶことからE41の路線番号がふされたが,実体としては国道156号に並行する.

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wikipediaより


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国道156号 終点付近(高岡市)

東海北陸自動車によって奥美濃へのアクセスは格段と利便性を増した.かつて国道156号の奥深い道を時間をかけて道散策をした時代からすると,まさに隔世の感がある.

東海北陸自動車道も人口減少の市町村を結んでいる.そのことから,かつての道路公団時代は,赤字路線になる無駄な高速道路としてメディアでは激しく叩かれていた路線のうちの一つだった.

ところが,1995年に白川郷が世界遺産に登録されたことで部分開通ながらも東海北陸自動車道での流れが増えるようになった.それまで孤立していた高山とも相乗的に旅行パッケージに組み込まれるようになり,奥美濃・奥飛騨は活気づく.

また,もう一つのきっかけは1998年の長野五輪

この大会からスノーボードが正式種目となり,その鮮やかなスタイルが若者を中心として人気が高まった.バブル崩壊後に冷え込んだ不況下ではあったが,お金がかかると敬遠されていた冬のスポーツに客足が伸びるようになった.観光の閑散期となる冬場でも近畿・中京圏から奥美濃・奥飛騨方面へのスキー場に向かう車で渋滞となるほどに格段に多くなったことを憶えている.

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そして,2008年に全線開通.これにより,東名・名神・北陸道からの車の流れが完全に変わった.

交通工学ではネットワーク効果とも呼ばれる道の相乗的な機能.東海北陸自動車道ではそのネットワーク効果が遺憾無く発揮されたともいえる.

これにより,長年その役割を担っていた国道156号の需要性は薄れつつあるかと思ったものだ.ところが,E41からの需要効果を受けて,むしろ週末ともなると車の列が続くほど交通量が多くなった.さびれゆく三桁国道も多い中,予想を覆して国道156号は活況を呈するようになったのだ.

人の流れは読みにくい.しかし,人の流れは道で変わる.

そのようなことをこの国道156号から実感する.

信仰の道

南北の縦に伸びる道が発達したのも,地勢的には日本海と太平洋との交易路の重要性があったと地誌では述べる.そのことはさもありなんと思う分析ではあるが,それ以外に国道156号の原型となった道は白山信仰によって開かれた経緯があったというもうひとつの意味合いを知れば,この国道をたどる中での心象を大きく変えることになるように思える.

岐阜より見た場合,そのルートは長良川を北上し,現在の長良川鉄道の終着地点の北濃もしくは前谷から檜峠を越えて石徹白,そして白山へのルートがメインであったようだ.

夏のシーズンには「上り千人下り千人」と言われるほど多くの参拝客で賑わいを見せ,場所によっては通行税が課せられたという.

非常に山深い狭隘・峻険なる道がどのように拓かれて,またどれほどの歩みが行なわれたのか.それほどの多くの人を惹きつけた山岳信仰があった事実というフィルターとして通してみると,この道は意味深い.

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江戸期になると岐阜と郡上八幡を結ぶ道は郡上街道と呼ばれるようになる.とはいえ,「その剣難は貨物の運搬,馬背をもってするも,なお容易ならざりき」と語れるほど,郡上街道は難所に続く難所に遮られていた.

その難所とは,美濃市須原~美並村木尾間の地蔵坂,美並村半佐~根村の恵比須坂,美並村下田の下田の渡し,美並村福野の福野坂,美並村三日市の三日市坂,八幡町吉野の箱坂,おなじく宝殿

明治12年に県道に編入によって本格的に道路の改良整備が始まるが,明治44年に街道中最大の渡し場であった下田には橋が架けられ,全線が道路によってつながった.約30年にわたる大事業だ.

一方,郡上八幡から北は白鳥までは上保街道,さらに白鳥から北へは街道名を白川街道と名を変えて,飛騨國大野郡荘川村まで通じていた.

当時は高鷲から鷲見を越えるルートであったが,明治32年には現行のルートである白鳥-高鷲-蛭ヶ野に至る道が整備され,こちらが主街道となった.

昭和初期には大規模な改修工事行われ,その道の広さから「三間道路」,もしくは投資した費用の大きさから「百万円道路」とも評された.

このような明治・大正期の脈々とした流れを受けて,昭和27年の道路法改正によって岐阜県岐阜より富山県高岡に至る2級国道156号が誕生する.

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さくら道:御母衣ダムと2本の老桜

岐阜県荘川村に高さ131m,幅405mのロックフィルダム,御母衣ダムがある.そして,その脇を走る国道156号の西側の湖畔には荘川桜と呼ばれる2本のアズマヒガンが植えられている.

ここを訪れたときは,年末の厳冬期.当然のことながら桜の花はつけていなかったが,前日に降った雪の氷結が見ようによっては華をつけているように白く輝いていた.

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御母衣ダム 荘川桜 雪景色

荘川桜は,このダムが完成した昭和35(1960)年,当時のダム工事を担った電力開発株式会社初代総裁,高碕達之助氏の決断によって存命した老桜で見事な巨樹だ.

戦後,日本の復興に伴って国内で渇水および電力の不足が深刻な問題となりはじめた.

アメリカ・GHQおよび日本政府はその危機を解消するべく,昭和27年に総理府告示第237号として全国9ヵ所に大規模ダムの建設を決定.

そのうちの一つが庄川系の御母衣ダムであった.

昭和32年に工事が着工され,昭和35年にロックフィル式ダムとして完成した.このダムの完成により,荘川村の白川郷が湖底に沈んだ.

高碕氏は国家プロジェクトを完遂させなければならない責任を感じる一方で,個人として消え行く村に対する惜愛の情を感じていたとする.ある補償交渉の場でのこと.その会場の隣に樹齢400年の姥桜が目にとまった.その時,個人としてしうるせめてもの償いとして,桜の移植を考えたとされている.

桜の移植とはいってもそれほどの老木となると前例がなく,かりに移植できたとしても活着する可能性はなかった.

当時,桜博士として知られていた笹部新太郎氏に伺いを立てたが,その結論は同じ.しかし,いずれにしても湖底に沈み廃木となる運命には変わりなく,同じ滅び行く運命にあるならばと移植を決意する.

昭和35年11月15日.桜の移植が開始された一本に10日ほどかけて慎重に工事が進められた.掘り起こされた桜は約40トンと予想を上回る重量であった.大型ブルドーザーに牽引され1km先の現行の地へ運ばれた.移植が完了したのは年の瀬が押し迫る12月24日であった.

そして半年後の5月.奥美濃に遅い春が訪れた.姥桜は淡い花びらをつける.

 ふるさとは 湖底になりつ 移し来し この老桜咲け とこしえに

これは高碕氏の詠んだ句で水没記念碑に刻まれている.

さくら道:その2 太平洋と日本海を繋ぐ桜並木

神山征二郎監督の作品で『さくら』と題する映画がある.篠田三郎さんと田中好子さんが共演している映画で,昭和40年代に太平洋と日本海の260kmを桜並木で結ぶぼうとした一人の国鉄バスの車掌,佐藤良二氏の実話をもとにした内容となっている.

この原作は中村儀朋氏の『さくら道』.NHKのディレクターであった中村氏が昭和56年に「ふるさと証言」という番組の取材をきっかけとしてまとめた一冊の本が題材となっている.


佐藤氏は名古屋と金沢と走る国鉄バス「名金線」の車掌であった.このバスのルートは名古屋を出発し,枇杷島,清洲,一宮,岐阜,美濃,美並,八幡,白鳥,蛭が野,御母衣ダム,平瀬,五箇山,細尾峠,福光と経て金沢に至るもので,約半分以上を現在の国道156号を走行するルートになる.

バスの車掌の傍ら御母衣ダムの桜の移植にはカメラマンとして立会い,活着してからも慰問資金を集めるために桜の写真を撮影し地元の人々へ還元する活動を行っていた.

春になって御母衣ダムに訪れると,荘川村に住んでいた人々が桜の木の下で花見の宴を開いていた.その座にいた一人の老女が立ち上がりゆっくりと桜の樹に近づくと,樹の肌を撫ではじめ,ついには崩れ折れるように木にすがり声をあげて泣きはじめた.

その姿を目の当たりにした佐藤氏にとってその後の桜並木計画を実行するにあたり,大きな影響を与えた光景だったとされる.

名金線の走るルートに桜を植える第1歩となったのは「日本さくらの会」に移植後の写真を送り,その返礼に30本の苗木が贈られてきた昭和41年4月から.初めはバスが発着する名古屋営業所に植えた.

それから自費を投じて毎年200本近い桜の苗木を沿線の各地に植えつづけ,昭和48年4月10日,金沢の兼六園に1500本目の桜を添えた.実に7年の歳月をかけ夢を実現したことになる.しかし,その3年後の昭和51年1月25日に永眠.47歳の若さでこの世を去った.

1993年より4月に岐阜県白鳥町を中心として「さくら道国際ネイチャーラン」というマラソン大会が催されている.これは名古屋市から金沢市まで佐藤氏が残した桜並木の道を2日がかりで走るイベントとなっている.

参考文献

郡上郡史 岐阜県郡上郡,1910
ふるさとをゆく 郡上郡教育振興会,1999
郡上八幡町史 郡上八幡町,1981
白鳥町史 通史編 白鳥町,1977
大和町史 大和町,1984
さくら道 中村儀朋,風媒社,1993

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