【エッセイ】明治国道でたどる東海道 序#2 日本橋 点とオブジェクト《明治編》
前編《近世編》
青い日本橋と標石
時代は明治期に変わって間もない明治6年5月31日.この日,近代となって初めての大規模な改架が行われた日本橋が竣工した.現在の日本橋の先代にあたる.
当時の様子を記する『東京市史稿』[1]に収録されている『東京開花繁昌誌』によれば,建材は欅,その木目は魚の鱗状となっている如鱗杢(じょりんもく)の美しく装飾性の高い良材であったようであるが,惜しいことに青ペンキで塗工していたと嘆いている.
なかなか想像しにくいが,明治の日本橋は青かったのだ.
その斬新奇抜ともいえる青い日本橋の橋詰に標石が建てられていた.そのことが次のように記されている.
これまで日本橋のオブジェクトについて文献を探し求めていた中で,初めて眼にする「物体」に関する記録情報となる.探し求めていた元標ではないことは一目瞭然だが,形ある造型が存在したことは,今の日本橋の元標につながるヒントを与えてくれる.
『東京開花繁昌誌』には,竣工後の間もない時期と思われる日本橋を主題とした白黒の錦絵の挿絵も添えられている.日本橋を中央に直線的に取り入れ,左右の対称性を強く意識し,賑やかで活発な人々の往来の様子を所狭しと描いている.
橋の空間は大きく三分割されている.中央部の車線部と両脇と歩道部とが柵で隔てられおり,車線部にはまだ発明がなされて間もない人力車も行き交う.今で言う「歩車分離」の設計が早くも取り入れられた格好だ.
左手の奥に見える建屋は「電信局」とある.これは,明治5年に開局した「日本橋電信局」.現在は野村證券の「日本橋野村ビルディング」となっている場所であることから,作者は日本橋の北詰に座を構え,銀座方面を描いたことがわかる.
あらためて橋に注目すると,右手の親柱の手前に「日本橋」という石標がある.これが『東京開花繁昌誌』に述べられている標石,日本橋に初めて置かれたオブジェクトの姿だ.
錦絵から写真へ...明治期には記録においても大きな技術革新があった.日本橋という日本の象徴であれば,写真が残されているはず.そのように考え,種々の文献やデータベースをあたったが,この明治6年に竣工した先代の日本橋を撮影した写真は誠に少ない.
錦絵と最も年代が近いと思われるのは長崎大学附属図書館の所蔵の下記の写真だ [3].撮影年代は不詳,ただし明治15年に開業した東京馬車鉄道のレールが敷かれていないことから,少なくとも明治15年以前の日本橋であることは確かだ.
この写真は,偶然ながら『東京開花繁昌誌』とほぼ同じ角度からの構図となっている.錦絵に描かれた右手下方の同じ場所に着眼すると,二台の人力車の奥に石標らしいオブジェクトが見て取れる.
左に二人の男性が橋の欄干にもたれかかっているが,人間の丈から判断すると標石の高さは『東京開花繁昌誌』にある”高さ凡そ五尺”(約1m50cm)とも合致する.大正期の道路元標よりも巨大で重厚感のある標石だ.ただ残念ながら解像度が潰れ,「日本橋」と彫られた文字は判読はできない.
再度,橋の中央部へ目を転じてみる.橋の弧を描く最頂部,すなわち中心点付近には特別なオブジェクトがあるようには見て取れない.見通しのよい空間が広がっているだけだ.
『東京開花繁昌誌』でも橋の中央部に何かしらの「元標」が設けられたことについては一切触れられてはいない.
また一つ確からしいことがわかった.明治6年の先代の日本橋には「元標」としてのオブジェクトがあった可能性は極めて低いという事実だ.
「点」は「部分」をもたない
この明治6年竣工の日本橋にこだわった理由がある.それはいみじくも同じ年の明治6年に街道の起点として日本橋の「橋の中央」が示されたからだ.
日本橋の竣工の半年後,明治6年12月20日に出された太政官413号「諸街道里程取消方法並ニ元標及里程標柱書式ヲ定ム」と呼ばれる法令がある.ここに東京は日本橋,京都は三條橋の中央を国内の諸街道の起程の元標とすることが示された.
ところが見ての通り,この段階では日本橋と三条橋の二箇所に基点が定められている.東海道の起点と終点に基準点が設けられ,その二つの元標から伸びる街道の基準点を東日本と西日本とに区分して分けあった.日本橋が日本の道(諸街道)の唯一の基準点とはならなかったのだ.
元標についても初めて言及された.大阪府と各県は,県庁所在地に木製のオブジェクトを建てて,それを県内(管内)の街道の元標とすることと府県に対しては明示的に「木製の標識」を求めている.それは,台座の上に角柱が固定される様式となっている.
一方,東京と京都の元標については具体的な示しがない.但書きには「東京都兩府ハ國内諾街道ノ元標ヲ以テ管内諸道ノ元標ト可致事」とあるので,木標を建てうる解釈もできれば,建てなくとも「橋の中央」と解釈するのも可能だ.
もしかしたら,元標が存在した可能性がある.それが明治6年の日本橋について追い求めた根拠であった.
残念ながら,長崎大学の写真はその可能性を打ち消すものとなった.ここに明治6年においては日本橋に元標が実体としてはなく,「橋の中央」という「点」が元標化されたことがはっきりした.
江戸期から比べれば「点」が示されたことで一歩前進した.だが,実体がない抽象的な存在は,依然として変わりはない.それは幾何学の古典『ユークリッド原論』の点の定義を思わせる存在と感じられるのである.
元標は郵便からはじまった
「諸街道里程取消方法並ニ元標及里程標柱書式ヲ定ム」では,「元標」の実体はないものの,その位置を「橋の中央」定めたことでは記念すべき通達となった.
それでは,なぜ,明治になって「元標」が定められるようになったのだろう.そのような問いに対して調べてゆくと,郵便との関わりが見えてくる.
郵便制度の確立で明治政府がまず取り組んだことがある.それは街道の距離,すなわち「里程」を取り調べること.
郵便料金として距離制を考えたため,まず郵便の配送路とその距離を明確にさせなければならなかったことによる.
明治政府は,明治2年11月に改めて36町を1里と定めた(民部省第1097号).あわせて,一里塚に相当する「里程」(現在のキロポスト)の登録を行うように布令している.
そして明治4年の旧暦3月1日(1871年4月20日)から郵便制度が開始される.
サービス開始時は,暫定的に国内均一料金としていたが,その年の旧暦12月5日から距離制の運用を開始.その距離制のサービス体系も明治6年には改訂されて従量制に切り替わる.そして,同時に郵便は官営事業となった.
明治6年6月17日に郵便線路なる規程が定められた.
これはおおよそながら配送経路が示されたことのほかに,この段階では東京および西京(京都)から各府県庁までの「距離」が暫定的に決められた(両京ヨリ各府県庁ヘ郵便線路里程表明治6年6月17日 大蔵省第100号).
ここで暫定処置をとったのも,里程の基準点がはっきり定められていないことによる.その流れを受けて基準点=元標を定めることになったのが上記の太政官の通達「諸街道里程取調方法並ニ元標及里程標柱書式ヲ定ム」であった.
「諸街道里程取調方法並ニ元標及里程標柱書式ヲ定ム」には,元標として3つの定めが盛り込まれた.
この定めを形にした標柱が「里程元標」と呼ばれるオブジェクトだ.兵庫県には今でもメモリアルモニュメントとして残されている.明治初期に全国の要所に設置された「里程元標」および「里程標」は郵便制度における郵便線路のために整備された遺構ともいえる.
なお,この暫定の里程が解消されるのは3年後の明治9年3月のこと.(東京ヨリ各府県ヘノ郵便路線里程表,明治9年3月2日太政官達第24号)
日本橋と三条大橋について差分を見てみると明治6年段階では暫定128里8丁44間(503km643m)であった距離が,明治9年には131里19間尺(514km506m)と確定された.測量によって約3里(約12km)のプラス補正がなされた.
このように里程も明確に定められたことによって,いよいよ日本橋における元標の具現化と「国道」の起点がつながることが期待できると思われるが,そう簡単ではない.まだ幾重にもつながらない謎があるが,それは次の回に述べることにしたい.
なお現在の公務員の旅費規定の算出の根拠となるものも,遡るとこの郵便線路の里程表からはじまった.公的なルートとして郵便路線が根拠としてできたことを受け,その郵便線路に基づいた距離と交通機関で費用が積算された.
日本橋の原点を定めたことは,その後の日本の交通システムともつながって,出張のあり方まで人々の暮らしに関わってゆくことになった.これは,日本橋のオブジェクトにかかる一つのトピックだ.
(つづく)
参考文献
[1] 東京市 編:『東京市史稿 市街篇第54』, 昭和38年
[2] 東京印刷株式会社 編:『日本橋志 開橋記念』,東京印刷,1912
[3] 長崎大学附属図書館:『幕末・明治期日本古写真コレクション』,(http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/)
[4] 梅谷 武(訳):『ユークリッド原論』,2006(https://pisan-dub.jp/doc/2011/20110205001/intro.html)
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