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日曜日の本棚#39『おいしいごはんが食べられますように』高瀬隼子(講談社)【食を通じて描かれる「正しさ」に翻弄される現代人のリアル】

毎週日曜日は、読書感想をUPしています。

前回はこちら。

今回は、第167回(2022年上半期)芥川賞受賞作で、高瀬隼子さんの『おいしいごはんが食べられますように』です。

タイトルにもあるように「食」を通じて描かれる、現代人の複雑な感情が織りなす物語です。第167回芥川賞は、候補作すべてが女性作家だったことで話題になりました。純文学こそが時代を最も反映するのであれば、それは当然のことだろうと思います。
なぜなら、時代が生み出す矛盾やしわ寄せは、その大半が女性に襲い掛かるからです。だからこそ、このような作品が生まれる土壌となるのでしょう。

作品紹介(講談社HP作品紹介より)

第167回芥川賞受賞!
「二谷さん、わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」
心をざわつかせる、仕事+食べもの+恋愛小説。
職場でそこそこうまくやっている二谷と、皆が守りたくなる存在で料理上手な芦川と、仕事ができてがんばり屋の押尾。
ままならない微妙な人間関係を「食べること」を通して描く傑作。

所感(ネタバレを含みます)

◆「正しさ」が生み出すモンスター・芦川さんの攻撃性に翻弄される二谷と押尾が吐露する言動のリアリティ。

環境に適応すること。それは人間の生存戦略の基本である。であるならば、今の環境が生み出した「正解」というものが存在する。それを体現したのが、この物語の影の主役である「芦川さん」である。
芦川ではない。「芦川さん」である。なぜなら、「芦川さん」と表記するのが「正しい」からである。

本作のリアリティは、芦川を「芦川さん」と呼ばないといけない「正しさ」を求める世間の空気によって醸成されている。正しい答えを出し続ける芦川さんに逆らうことは、反時代的行動となり、生存を脅かす。

内面が描かれるのは二人。共に職場の同僚である。男性の二谷と女性の押尾は、芦川さんの「正しさ」を嫌というほど思い知らされる。

冒頭で二谷は、カップ麺を食べる。のちの展開で芦川さんと付き合うことになる二谷は、芦川さんが寝静まってからこっそりとカップ麵を食べる羽目にになる。健康という視点ではカップ麺はごはんとして「正しくない」からである。

一個口のコンロで見事に手料理を作り出す芦川さんは、「正しい」ごはんを二谷に提供する。寸分の隙もなく。そんな芦川さんの前でカップ麵を食べることは許されない。

二谷の部屋にうず高く積まれたカップ麺を見て、芦川さんは、「心配する」からだ。非難ではなく「心配する」のだ。とても正しいアプローチとして、最善手を放つ芦川さん。
正しさに従うしかない二谷は苛立ちを隠すことができない。
これが妙なリアリティとなる。

職場の後輩でもある女性の押尾もまた、芦川さんに苛立っている。偏頭痛であっさりと早退し、そのしわ寄せがダイレクトにくるのが、同性、とりわけ女性同士の仕事上の悲劇でもある。

最近、「子持ち様」という言葉が広まりつつあるようであるが、これも同根であろう。

これは間違いなく女性発の言葉であることは疑いようがない。
女性が生み出す問題は、女性が処理をせねばならない構造がこの国にはある。女性の仕事を、男性が肩代わりをすることはあまりないからだ。
これは、ないようで実はある男女分業の文化に由来する。

「正しい」ことに完全コミットした芦川さんは、モンスターとなり、「正しさ」に従う会社は、社会は、二谷を押尾を容赦なく攻撃する。二人は、表面的にはなす術もなくやられ放題となる。

その結果、必然的に二人は、外食で愚痴を言い合う仲になる。

カップ麵と手料理の中間に存在にある「外食」は、正しいことだけでは生きられない象徴的存在となる。

◆言語化できない苛立つ二谷の行動が起こす波紋
本作は、当たり前であるが、小説である。小説としてラストに向けてギアを上げないといけない。そこで作者は、ストレスに晒されている二谷にその重要な任を授ける。それが、芦川さんが会社の人々のために作るお菓子の破壊工作である。
二谷は、その破壊工作の証拠をあえて会社に残す。これは二谷の無意識の行動のように描かれる。二谷の苛立ちは、言語化できないストレスでもあり、徐々に暴力的になっていく。

その行動を押尾は利用する。二谷が捨てたお菓子をゴミ箱から拾い出し、芦川さんの机に置くのだ。

ここに、アウトとセーフの境界線が描かれる。

二谷は、ギリギリセーフ。そして、押尾はアウトだと作者は判定を下す。
反時代的行動であるのがその理由であり、とても納得のいくものである。

現代人は、アウトの行動をみることはあまりない。誰もがアウトだと判定が予測される行動はしないからである。

ここに本作の小説としての思考実験としての良さがある。

◆問われることは、芦川さんの立場に立てない読者の想像力
本作を読み終えて感じることは、芦川さんの行動の解釈だろう。あえて計算高いキャラクターとして造形されているが、私にはその「計算」とは何かを読み進めるうちに、考えるようになっていった。

芦川さんは、ただ単にまじめな人なのではないか。

身体が弱く、みんなのように残業や休日出勤するようなフルコミットで働くことができない。

そんな芦川さんにとっての生存戦略とは「正しい」振る舞いをすること。
それはある意味で当然でかつ自然なことである。弱いものとしての自覚が正しさをより強く意識させられるのだろう。

そんな弱い自分を守るために、もちろん決して少なくない割合を占める感謝の気持ちもあり、芦川さんは、自分ができることを精一杯しているように見えてくる。職場の人たちに、交際相手の二谷に心を寄せる。それを行動として表現すると人によってはああなってしまうのではないか。

それを計算高いとか、弱さを売りにしているとか、読者としての「私」は、曲解していないだろうか。

ここで芦川さんと読者である「私」と視点を共有していた二谷と押尾は立場を入れ替える。

モンスターは私たちの方なのではないのか。

そんな嫌な線を残して物語は閉じる。

その意味で、本作はよくできている。

ラストシーンでの、芦川さんの涙は、作者の最も言いたかったことではないのだろうかと私は思う。

誰もが自分を理解してもらいたいと思う。誰もがそのための努力もしているが、それが叶うのはごく限られた人だけであるのもまた現実でもある。

生存戦略として、社会適応として「正しいこと」しかできなくなってしまった芦川さん。それを受け止めることのできる男は、二谷だけだった。何をもって芦川さんは、そのように判断したのかは不明だが、芦川さんの眼力は正しかったのだろう。

それができたのは、正しさへの執念だったのかもしれない。その点で、押尾は正しさへの執着よりも、自分らしさへの執着がまさった。そのような人間は、「ちゃんとした会社」からは、退場せねばならない。

ちゃんとした会社は、「正しいことを求める場」なのだから。

そのことも、作者は冷徹に読み解いている。このリアリティこそが、他の候補作との一線を画した理由なのかもしれないと思った次第である。





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