読み方の分からない駅で、降りることになった。
まさか、また行くとは。
「ぬ…ぬ…ぬぅ?」
それは本当にたまたまだった。ここのプラットホームでちらっとお見掛けした方が、“もう一度行こうと思っていたけど行けなかった”的な事を書いていた。あぁ、あれか。そう言えばインスタでこことここで上演します的なことが書いてあったな。よし。ならば行くか。逗子と兵庫という文字を見かけて、とりあえず調べた。
「ぬ…ぬ…ぬぅ?」
そしてこの状態になった。どの地方にも読めない地名はあると思うが、まさにそれが、それでもう読もうとする事はやめにした。Google Map大先生は、すぐにその経路を教えてくれた。そして私は、1日1回しか上映されないその映画のために 地元といえば地元だけれど。行ったこともない駅に行くことになった。そして、降りたこともない駅で降りることになった。
京阪神間(京都・大阪・神戸の辺り)を日頃 うごうごしているという意味での、大きな括りでの地元。まさにちょっとした旅だ。
一度乗り換えてその地に向かう。乗り換えた途端、辺りが山になった。ここは本当に西なのか!?普段自分が、西は西でもいかに都会にいるかがよく分かる。
そして、たどり着いたのがここ。さぁ。なんて駅名だ?
めふΣ(´Д` )
まさかの めふΣ(´Д` )
なんてこった。お勉強にがてと分かってしまうではないか。
しかし何もない所だ。こんなところに映画館などあるのかと思ったが、改札出て直ぐ。なんともまぁ…渋い感じの建物だった。その建物の隣の建物の5階に目的の映画館があった。
即決めて即動いたので。基本なんとなく。そこがどういった場所かよく分からなかったが、すごくこじんまりとした映画館だった。
“宝塚市唯一の公設民営の映画館”
もう漢字 二文字以上はキャパオーバーなので放っておくことにした。だけど。
「うおぉ…」
よく分からないが。山田洋次さんが来ていた。酔ったおじさまが、俺 山田洋次やでと書いた山田洋次ではなく、多分あの山田洋次の山田洋次さんだ。(どういうこと、)
風の天の寅のさんの、メロンで喧嘩をする労働者諸君の 山田洋次さんだ。観たことないけれど。我ながらちゃんと観たことのない事で駄弁れる秀才だと思う。私の認識が間違っていなければだけど。
色紙があった。このメッセージは、全国の映画館のスタッフさんへのエールでもあるような気がするから、とりあえず撮っておいた。撮らないでくださいと言われなかったし、貼り紙もなかったので。
なんか渋い映画館だなと思った。例えが伝わるか分からないけれど、東京セレソンDXの【歌姫】という舞台に出てくる、“オリオン座”みたいな映画館だった。(しっぶい。) こんな、いかした場所なら中原淳一のそれいゆファッションをしたくなる。しないけど。実際あの格好をしたら薄着で、風邪まっしぐらだと思うから。(なんの話やねん、f(^_^;)
チケットを買って、残り30分。お腹がすいたのでアイスを食べた。抹茶アイスの器はコーンかカップかどちらになさいますかと言われ、カップと答えたら、まさかのコップ。しかもおしゃんなコップ。
しかもテラスもある。ここ、いいな。遠いけれど。程よく山だけど。渋いけれど、心地よい。
開場したので館内に入ったら、なんて小さなシアター!!可愛すぎるではあるまいか。今から映画を観るのに、この空間が映画の世界かのような空間ではないか。(え、どういう事、) “映画のセットのような映画館”でこれから映画を観る。最高ではないか。
しかも。映画が始まる前に予告CMよりも前に、謎の音楽が流れている。…これ。気付いた私は、映画マニアではない。しかし気付いた。Mr.パーフェクト。ジーン・ケリー。巴里のアメリカ人。アイ・ガット・リズム!!ガシューイン!!
おい、なんだ。ここ。最高じゃねえか。フランスの子供に英語を教えるジーン・ケリー。I Got!私もケリーに英語を習い I Gotのリズムで、胸の内でスイングした。
そしてようやく始まった。また旅に出るとは、思いもよらぬ見きり発車だった。
【いつも、違和感があった。】
少し話は逸れるけど。私は気付けば、劇場マニア…いや。劇場の空間マニアである。そんなナチュラル・ヲタは、折に触れて感じる違和感があった。
時々感じるそれをうまく言えないというか、言う程でもないというか。言ったところで玄人の評論家きどりになるのもいやなので、なるべく気にしない様にはしていた。劇場に行ったことがない方が見ないことを願って言うと、(だって純粋に楽しんでほしいから) あえて口が被れそうなので、口が痒いので言っちゃうと。
作品に対して、劇場の規模(建物のつくり)が合っていない時がある。
それ 全てに人生を捧げる程、熱心ではない。でも所々、全く興味のない人より、時間とお金と心の余裕をそこに注いできた。だから何となく、そう思う。詰まらないものには詰まらない物の共通点があり、おもしろいものにも共通点がある。具体的にそれを述べることは、誰かが面白いことを見付ける楽しみの妨げ。奪っちゃうかもしれないので言わないけど。
作品に対して、劇場の規模(建物のつくり)が合っていない時、観る側のプロはどうなるかと言うと。合っていないと、現実に帰る回数が多くなる。…と、思う。
大きな劇場には大きな劇場の良さがあり。小さな劇場には小さな劇場の良さがあり。(玄人みたいなこと言わせね~よ、) えぇ。言いませんとも。口の被れが退いたら言いませんとも。
【大きな劇場小さな劇場】
ただ 一つだけ。過去にいやな思いもしたことを記しておこう。例えば「暗闇はお客様と演者を繋ぐ魔法の始まりです…」という素敵な始まり方をする劇中劇があった。だけどその大事な暗闇の中、劇場係員がペンライトをすごく申し訳なさそうに照らして、遅れてきた人を誘導してきた。冒頭のいちばん大事なシーンを潰された。私たちは、そのお約束の魔法の絨毯に乗れないままずっと冷めた現実の目で観ていた。大事なシーンの時だけ、せめて明るくなってから入れれば良いのにと、いかった。だけど、どうしてそれがあるのかを考えた時。観る側のマナーがなっていないとか、観られる側の連携不足とか。そんな初歩ではなくて、もっと奥に何かあると思った。だって、よくあることだから。(本当よく遭遇するのよね…)
作品への集中力をなくすというか。つまらない訳ではないけれど、けれど。おしりが痛いな、お腹空いたな、早く終らないかな、終わったら何食べようか、今目の前で人が上手に歌っているけれど、何で歌っているんだろう。話の筋的に必要だからいるんだろうけど・・・このシーンいる? お腹いっぱいだから一旦歌わずお芝居してよ。今私たちは何を観させられているんだろう。
そう思う時は、大概その作品と劇場の規模が合っていない時だと思った。
私は、劇場の空間マニアではあるけれど、程よく演劇アレルギーでもある。(めんどくさっ、) だからきらいなお芝居は、何故好きになれないのか徹底的にディベートをするだけの材料となる武器も持っている。私は私の言葉の鋭さがこわい。
表現の内容と、それを発信するツールという意味では。note内でも、それ以外のプラットホームでも。人間性に魅力があって、なむか良いなと思われる人気のある人は、自分の身の丈にあった“劇場”で上演している人たちなのかもしれない。
私自身は、まず箱の前に中身がないから論外だけど。
ただ今回、同じ映画を大きな劇場、小さな劇場。両方で観てみて思ったのは、映画などの映像作品にもそれが当てはまるのだなと思った。
今回観た映画でいうと どちらがぴったりかというのは好みだが、大きな劇場で観た時、海の潮風を感じた。小さな劇場で観た時は、目の前に海があった。大きな劇場では臨場感、小さな劇場では作っている人、一人ひとりの熱量が伝わる。また、大きな劇場では分からなかったが、その映画はクラウドファンディングの支援のもと映画館で公開された。エンディングのテロップに、そのお一人お一人の名前が見えた。大きな劇場でも同じものを見ていたけれど。小さな劇場の方が、じっくり見られる。その人達のおかげで今私は、またここへ来た。ありがとう。たまたま見掛けた記事によりまたここへ来た。私の人生はそんなたまたまと、何となくのささやかな小さいことの繰り返しだ。感動をかみしめて、またどこかへ行く。
この時のことを振り返りふと思うのは、クラウドファンディングで支援をされた方のお名前一人ひとりを見た時。蒲田行進曲だと思った。大部屋役者さんが、映画の冒頭、自分の名前が大きくどかんと出るのを夢見るというやつだ。
映画の作り方は変わっても、残る映画は変わらないのかもしれない。前に一度、お笑いの方が「ここの劇場には当たっても痛くない矢をぴゅんぴゅん放つキューピットがいる。(お客さんは笑いやすいし、演者はやりやすい)」と言っていた。
私は、劇場には座敷わらしがいると思う。それはもう気分屋の座敷わらしが。
追伸。微力ながら。微々力ながら。クラウドファンディングには参加しとりませんでしたが。パスポートを発行させて頂きました。
おわり。