いつもの会を経て(探究多め)
月に1回、夜の大学に通い、2時間話をしたり聞いたりなどの時間を過ごした。それを1年ほど続けたが、私が4月以降に名古屋を離れることとなった。
最後の会では、特に後半において、主に総合的な探究の時間について話しながら、探究全体について議論した。そこで、自分なりに思ったことをここにとどめておこうと思う。なお、議論の前提として、ここでは高校地理歴史科を基礎に、総合科目と探究科目に分類の上、探究科目は「総合的な探究の時間」を中心に想定している点、ご了承していただければと思う。
1.総合科目と探究科目の接続
ここで話すのは、散々いろんな文献で指摘されてきた歴史総合や探究科目の学習内容やその方法ではない。生徒が主体的に思考・判断し取り組むために、探究科目を基軸にしたときに総合科目がどのような位置づけができるのか、ということである。なお、1)ここでは生徒が外発的動機づけに基づいて学校へ登校し授業を受けていること、2)ここでいう探究はProblem Based Leaning ではなくProject Based Learning を前提(脚注1)とする。
生徒が外発的動機づけによって授業に参加していた場合、この状態で探究科目に入ると、ますます受動的に思考・判断することになりかねない。そこで、総合科目では、内発的動機付けを形成することが至上命題となる。
すでに、Facebookで一部取り上げているが再度説明すると、内発的動機付けは、知的好奇心とコンピテンス──自分は能力を持っているという実感、自律性──自分のことを自己決定すること、がきっかけとなって起こっている(西口・髙村編, 2010:48-50)。
これらを授業内に仕掛けとして組み込むことを考えた場合、例えば、好奇心を刺激するために実物を持ってきたり、生徒に驚きをもたらすような仕掛けづくり(=素朴概念に対するゆさぶり)が考えられそうだ。また、コンピテンスを刺激するために、ヴィゴツキーの「発達の最近接領域」を活用できるような発問を用意し、多少の教師の支援によって解決できる問題に取り組んでもらうこともよいだろう。自律性から捉えた場合には、自己決定させようとする切実性をはらむ問題が設定されていれば、それを解決しようと吸いる動きが生徒から起こる可能性は十二分にあるだろう。
これらの内発的動機付けのきっかけとなるものを刺激し成功を重ねていけば、生徒の資質・能力の向上を見込めることはおろか、自己肯定感をはぐくむことさえも十分に可能だろう。そこで、探究科目では『計画された偶発性理論』を基礎にどのような展開が望まれるか考えてみたい。
『計画された偶発性理論』とは、クランボルツによって1999年に提唱されたキャリア理論であり、サイトによって言及の範囲が異なるものの、ターニングポイントの8割が偶然によって起こった出来事でキャリア形成されている、という考え方であり、偶然こそがキャリア形成するチャンスである、ということを意味する。そして、クライアントがキャリアの意思決定がなされていないことを、むしろ「オープン・マインド」であるととらえて、探索的行動をとるようになる。その探索的行動をするにあたって必要な、1)好奇心、2)忍耐力、3)柔軟性、4)楽観性、5)冒険心、の5つの技能を必要としている(田中編, 2019:208-9)。
この理論が探究科目に似ていることがわかるだろうか。すなわち、探究するためには、問題設定しそれを解決しようとする好奇心や冒険心が必要なことはもちろんのこと、分からないことに耐え続ける忍耐力、発想を転換したりして別の解決策を提示しようとする柔軟性や楽観性を必要とするのだ。このようなPBL(Project Based Learning)を実行するにあたっては、生徒本人の自己効力感や内発的動機付けが必要と思われ、その基礎を形成する科目として総合科目を位置づけることができそうだ。そのうえで、探究科目では、計画された偶発性理論に必要なスキルを育成することができれば、学習指導要領が掲げる「生きる力」とも整合的であるだけでなく、レジリエンスも育成できうるのではないか。
したがって、次のような流れを提起する。総合科目においては、生徒の内発的動機づけを刺激して動機付けを高めることはもちろんのこと、自己効力感などを高めた能動的・主体的な態度を育成する。それを踏まえて、探究科目では、先に掲げた5つの技能を育成していければよいのではないか。
2.キャリア教育を考える
ここまでキャリア心理学について少し触れたので探究の時間におけるキャリア教育の私見を述べておきたい。
2-1.社会人基礎力は日常から身につけるもの
キャリア教育と心理学のなかで、「絶対」がつくほど鉄板ネタになっているのが、キャリアレインボーと社会人基礎力ではないだろうか。ここではキャリアレインボーは後述するので今は言及しない。
改めて、社会人基礎力を見てみよう。我々のような若者世代であれば、エビングハウスの忘却曲線なみに見ているものと推察する。
しかし、このようなものを育成するためだけに授業を展開するべきではない。なぜなら「考え抜く力」だって探究科目で代替可能であるし、前に踏み出す力やチームで働く力だって、学級経営やいつもの授業や特別活動のなかで育てようと思えばできなくはない。
この社会人基礎力のなかで致命的に弱い部分があれば、それ目的の授業を構成することは考えられなくもないが、すでに他の方法で代替可能であるものをわざわざ作る必要性はない(名古屋市がこれからやろうとしているがこれには反対である(脚注2))。
2-2. 総合的な探究の時間におけるキャリア目的の講演
それでも、あえて総合的な探究の時間にキャリア教育をするのであれば、どのようなことが考えられるだろうか。そこで、ここでは話題に上がった講演をテーマにして考えてみよう。
軸としては「予定調和でない講演」を目指したい。つまり、生徒の興味関心に沿った内容だったり、すでに知っている職業の人に講演してもらうのではなく、生徒にとって想定外だったり、教師でも知らない職業の人に講演してもらうのがよいだろう。逆に、多くの人がなるであろう、ごく普通のサラリーマンに講演してもらうのもいいかもしれない。
そのなかでは一貫して「その人の生き方」を説明するのがよいだろう。このような提案をすれば、講演者がどれだけ構成を練ることが苦手でも、箇条書きにしたものを順番に並べれば説明できるうえ、印象に残っている成功や失敗を語ってもらえるだろう。そのような、サクセスロード1本の道ではなく右往左往しながら進む過程を伝えてほしいのである。
生徒に講演の効果を知るため発問する場合には「どのような価値観を大事にしてきたのか」「なぜ成功したのか」「なぜ失敗したのか」を記述させたいところである。特に失敗の場面では、生徒にとっても教訓となる部分を多いことと思われ日常生活に結びつけてもよさそうだ。イメージとしてはテレビ朝日系の『しくじり先生』や『激レアさんを連れてきた』などを原型にしたい。
一貫して述べたいのは、自らのアイデンティティが形成されるさなかであるからこそ、多様な経験(追体験でも構わない)をすることによって「悩める人生」を送ってほしいのである。その悩みの種を解決しようとするその過程はまさに探究そのものである。
2-3. 大学進学のためのキャリア教育ではない
しかし、実際の講演は「ただ話を聞くだけ」で、探究のテーマで大学を決めようとする実に近眼的な発想が主流となっているのではないか。これが主流となった暁には、もれなく再び「出口指導だ」といわれることになりかねないと思う。
たしかに、探究のテーマを大学に接続させることは十分にあり得るが、全員にそうさせるべきではない。果たして、探求のテーマから教師はこの学問の領域だね、と正確に即答することができるだろうか。先生ができなければ生徒ができるわけもない。
具体的なテーマを深く研究したい、というのは一見素晴らしいことのように思われる。しかし、大学に入って学んだことが自分の関心を変えさせることも十分にあり得る(再三触れている「計画された偶発性理論」はこの考え方と整合的である)。僕は、高校時代には好きな学問を答えることはできなかった。しかし、数多くのオープンキャンパスを通じて、こういう考え方をする学問が好き、ということが分かってきた。「どうもそれが社会学、教育学、法学、心理学ぽい」ということが浮かんできたのである。
自分の癖づいた考え方をする学問を詳しく学べれば学ぶほど、自分の強みを生かせるだろうし、楽しいに決まっているのだ。その程度でいい。これが、昨今叫ばれる、コンピテンシー・ベースなのではないのか?
以前コンビニで買って、すでに捨ててしまったので本のタイトルがわからないが、そこに乗っていた人事のコメントを読むと「考え方の癖」を見ている、と言っていた。最近、読んだキャリアの本でも、次のように書いてある。
このように、重視しているのは「価値観」やコンピテンシーなのであって、大学で学問を学ぶことだけが目的ではない。医学部・薬学部・看護学部・工学部(建築など)などでは、その職業になることが目的となるが、それ以外の学部ではそうではない。むしろ、その基本となる考え方を使って社会に貢献していくのである。例えば、法学と数学とプログラミングは似ている。法学こそ解釈はあれど、いずれも前提(定数・変数・要件定義)を用意しないことにはどうにもならないのである。
探究の時間が自由型であった場合、このように将来の夢や自分の得意とする見方・考え方に沿ったテーマが見つかれば、実に面白くなるのではないか、と思う(脚注3)。過程を無視したテーマだけにこだわるのであれば、それはむしろ生徒の夢を壊すだけである。
2-3.探究で目指すべきは多元的な価値観に触れること
ここまでの話をまとめると、私の伝えたいのは「悩める人生を送ってほしい」ということである。そのために多元的な価値観に触れられる絶好の機会であり、しかも探究の時間は学校の裁量である以上、この自由を最大限に生かしてほしい。
計画された偶発性理論は、ターニングポイントの8割が偶然の出来事であるとする考え方である。しかも、このアイデンティティが形成されその先が決まっていく自己の価値観が構築されていく高校生には、人生を揺るがす大きな機会になりえる。この理論は教育のなかで本領発揮されるべきなのではないだろうか。
3.SDGsは絡めればいいわけではない
ところで、探究の時間で触れるべき事項の一つにSDGsが掲げられている。しかし、私が行った実習校の卒業論文を見たところ愕然とした。そんな実話をもとにしながら、どんな探究の時間を創るべきだろうか。
3-1.ちゃんとすれば「話題便乗型」にはならない
その卒業論文はSDGsの17の目標に絡めたテーマを追究していた。しかし、事実の羅列にとどまっていた。ちゃんとした問題設定さえされていないのも少なくなかった。第1号の卒業論文の時がどれだけ良い出来だったか。おそらくだが探究担当の先生が辞められたことと、受験至上主義から抜け出せていない結果なのかもしれない。
これが数年間続いているのである。SDGsが終わったらどのような方法をとるのだろうか。話題便乗型の探究の時間としか思えない。持続可能性を考える探究の時間が持続不可能など皮肉でしかない。もちろん、SDGsを探究の時間で取り扱うことを否定しているのではない。リサーチクエスチョンから論究の仕方、参考文献の書き方など、最低限のことができていればまだ問題ない。それがなっていないから問題なのである。
少し調べればわかることだが、例えば、スタイルガイドは、独自に学校で決めていることもあれば、日本社会学会スタイルガイドに沿っているところも見受けられる。むしろ、それができていないことは著作権上の問題になりかねないのだ。
3-2.どの立場のの持続可能性と自分ごと?
閑話休題、問題はそれにとどまらない。
持続可能性の意味が実に希薄なのだ。
例えば、私がいる大学のあるゼミでは水平リサイクルが行われている。確かに、ペットボトルはリサイクルしやすい素材でありながら、使用量が急激に増加しているためにリサイクルが進んでいない現状がある。2016年のデータによれば、リサイクルで形を変えたのはわずか6%である。しかし、ペットボトルなどの容器包装プラスチックをリサイクルした場合には、そのほとんどが以前よりも品質が悪くなっている(枝廣, 2019:14-6)。
しかもペットボトルを水平リサイクルしたからといって、最終的にはすいてることになる。果たして最終処分場の埋め立て量の削減に貢献しているのだろうか。本来、ごみの量を減らしたければ、リサイクルではなくリユース、最終的にはリデュースが求められる。そうしなければ「ごみ問題」は解決しないからだ。これでは深い持続可能性は実現しえない(浅い/深い持続可能性の議論は曽我(2013)を参照)。
このような根源的な問題を見出さない限りは、持続可能性も名ばかりになることを忘れてはならない。それが不可能であるなら、ほかの方法をとるしかない。先に述べたように自分の将来の夢や得意とする見方・考え方に沿ったものでいいだろう。
テーマ決めでは、そのような自分ごとになるものがいい。だが、持続可能性の議論でもそうだが、結局は「どの立場の」持続可能性であり自分ごとなのかを考えないことには、これらの視点を見落とした場合には「誰一人取り残さない」という理念を実世界に実現することは、到底不可能である。
4.何を探究すべきかわからない
結局、多くの学校では探究してもらうことが目的になっていないだろうか?
せっかく使える学校の自由がある。最大限に使いたい。
生徒にどんな人生を送ってほしいのだろうか。
それを軸にした探究になってほしい。
結果はどうだっていいのである。
考えた過程が大事であり、その考えた経験の積み重ねが人生に大きな影響を及ぼすと思っている。
僕は、教育実習の最終日に、お世話になった中1に「悩める人生を送ってくれ」といった。
自分のことでもいいし、人の問題に勝手に介入して悩んだってかまわない。
最後に、乃木坂46『大人たちには指示されない』の歌詞を引用して締めたい。先生たちには、生徒にこんなことを言われない授業を展開してほしい。
脚注
脚注1
第1章では、PBL(Project Based Learning)を想定したものの、PBL(Problem Based Learning)を想定した場合、その一環としてレポートを課す場合が考えられるため、その点について多少の言及をしておこう。
しばしば、レポートと小論文を混同しているケースを目にするがこれは大きな間違いである。なぜならば、レポートの場合は大まかなテーマがある場合もあるが、具体的な問題設定は筆者本人に託される。また参考文献をつけて、すでに明らかになっている事実や概念を用いて論証することが求められる。その一方で小論文の場合は、例えば「〇〇について(グラフを踏まえながら)論じなさい」という形で、大まかなテーマが設定されることはあれど、自ら問題設定をすることはないし、学んだ新しい知識をその場で披露するわけでもない。このようにどのように答えるかがまるで異なるのだ。
しかも、こういう論述を課す教師に限って、非常に長大な文字数を課してくることが多い。大学生の場合であれば、ある程度レポートを書くことによって「書く力」の鍛錬がなされているだろうが、高校生のように書き慣れていない人に、800字以上とか1000字以上を書かせてくるような鬼畜の所業をさせるのは、高校生にとって苦痛でしかない。はじめはそう多くは書けないのが当たり前であって、それを緻密に論証できるようにするための支援を行うのが教師の仕事である。具体的には「質問で返す」ということだ。今までのような助詞や文章の添削のような小手先の指導ではなく、生徒の意見をより深めるような指導が望まれるだろう。そのためには一つ一つの主張に対して、あえて疑義を問いかけることによって密度の高い意見を形成し自己変容を促したい。そのためにも、教師はそれを十分に留意しなければならない。
すなわち、レポートを課すのであれば必要な文献等を提供することが求められるだろうし、生徒にどれだけの文量を書けるのかをしっかりと調査しておく必要がある。
脚注2
名古屋市が実施しようとしているキャリアタイムに対して反対している理由は2つある。第一に、キャリア教育のためのキャリア教育を行うことは、ますます教師に対する負担を増大させるだけだからである。これが通るならば、平和教育のための平和教育、法教育のための法教育、国際理解教育のための国際理解教育など、ありとあらゆる教育が求められることとなり、際限がなくなってしまう。これでは教師の負担が増大するばかりか、児童生徒に対しても負担が増大することになる。
第二に、新自由主義(ネオリベラリズム)の潮流を受けすぎている点にある。新自由主義について振り返っておくと、規制緩和によって人々を自由にする代わりに責任を伴い、市場原理が求められる。良い意味では「自由社会」、悪い意味では「自己責任社会」になっているのだ。当然、やりすぎれば副作用は大きく、実際に80年代のチリでは社会主義政権を崩壊させるため、アメリカ・CIAの主導によってクーデターが起き、フリードマンによる新自由主義的政策が行われたが、むしろ不平等を拡大させただけであった(池上・佐藤, 2022:105-7)。
このように、市場原理が主軸となっているということは、人が商品化されることも必然であり、あれやこれやと何でもできる「多機能性」を持った人が求められる。それをキャリア教育という名のもとで推し進めようとしているのはいかがなものかと思うのだ。しかも、名古屋市公式サイトを見てみると、起業家を育てようとしているのだ。
ここで、GDPの公式を考えてみると、輸出入量は毎年大きく変わるということは特別な状況でない限りそうそうないので定数といえる。その一方で、政府の新自由主義政策をみると政府支出に希望は見いだせないし、人口減少社会で消費は落ち込んでいくだろう。そうなると、投資によってGDPを向上させるしか方法はない。投資をするためには企業がたくさんあることや国民全体が株式投資をすることが求められる。その一環で、起業家を育てることが求められているのだ。
このように散々いろんな能力を求めておきながら、起業家を育てて企業経営の失敗は自己責任させようとするなど、新自由主義の典型でしかない。しかも、産業というのはいつか飽和するに決まっているわけで業界によっては入れ替えが少ないところもある(例えば、電力や航空などの初期投資が多く寡占市場になりやすいところ)。したがって、全員が素晴らしいマーケティング能力を持っていなければ起業家を育てるなど不可能である。
したがって、キャリア教育のためのキャリア教育をしたり、その背景に新自由主義が蔓延っていることをしっかりと見抜けないまま、あれもこれも児童生徒に求めるのなら、それは子どもの心を疲労困憊にさせるだけである。
(以下の記事も参考になる。ぜひ読んでいただきたい)
飯田一史『日本の若者が深い友人関係を築けなくなった「決定的理由」 冷たい友人関係が蔓延している』現代ビジネス、2021年3月24日投稿
脚注3
少しばかりうる覚えだが、高校の同級生に音楽の専門学校へ行った人がいた。彼はバンドなどのいわゆるPOP系のボーカル、最終的にはプロデューサーになりたいと言っていた。しかし、学校の先生は猛反対した。私立学校にいたので、先生からすれば大学実績を作りたいことはわからないではない。
だが、音楽系は少し特殊で、いわゆる音楽大学はクラシックが基礎になっている一方で、その他音楽系専門学校は大衆文化を担っているのだ。したがって、その生徒の夢をかなえさせようとするならば、当然専門学校を推すこととなる。しかし、無知と学校の栄誉のために反対したのである。
こういう意味でも探究のテーマを軸に「大学」決め一本の選択肢は考えものである。専門学校は「馬鹿が行く学校」という偏見がある。実際、私の家庭はそうだ。しかし、それは無知の恥さらしである。下手すれば進路指導にが生徒の夢を壊す凶器になる恐れがあるので、十分に留意してほしい。
参考文献
池上彰・佐藤優(2022)『漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷 1972-2022』講談社現代新書.
SKEIZAI『GDPの計算』(2024年2月26日閲覧)
枝廣淳子(2019)『プラスチック汚染とは何か』岩波ブックレット.
経済産業省『社会人基礎力』(2024年2月26日閲覧)
児美川孝一郎(2013)『キャリア教育のウソ』ちくまプリマー新書.
曽我幸代(2013)「ESD における『自分自身と社会を変容させる学び』に関する一考察 ―システム思考に着目して―」『国立教育政策研究所紀要』第142集、pp101-115.
田中堅一郎編(2019)『産業・組織心理学エッセンシャルズ【第4版】』ナカニシヤ出版.
名古屋市『キャリア教育の推進』(2024年2月26日閲覧)
西口利文・髙村和代編(2010)『教育心理学』ナカニシヤ出版.
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