自分の意思で決めて生きていきたい
自分の快不快に耳を澄ます
最近おもしろい実験をしています。出来事に対してどんな感情を抱いたのかを冷静に分析するんです。一つの出来事だと思っていたものでも細かく分かれていて、感情は変化していることがわかります。
感情という言葉も微妙でその源泉は感情というよりは一瞬の情動であることに気づいてきました。快不快ですね。一瞬の快不快をキャッチして問答すると言語化されて感情として認識します。
快不快をキャッチするのはワガママではない
ワガママを言ってはいけません、と教育されがちな日本では大人になるにつれて自分の快不快に鈍感になっていくように思います。
自分の快不快に気づくことはワガママになるわけではないんです。ワガママと言われることには常識を超えていくという意味合いもあるのです。他人に迷惑かけるとか感情に呑まれて理性を失った言動は自分勝手でワガママとは違います。
同じ行動でも快不快が異なる場合がある
人に会うという行為について考えてみる機会がありました。基本的に出不精で単独行動が好きなので、人に会うのが億劫です。
ですが、誘わられるとうれしい。これは人に好意を持たれていると感じるからです。行くのは億劫だし、行ってもシンドイです。ただ何時間もしゃべる、食べるという時間は苦痛で一時間が限度だと感じます。
表層の私は明るくて元気で楽しそうかもしれません。場に対して自分の立ち振る舞いを常に考えてしまってとても疲れます。
今は年末で集う機会がありこんな思考になりました。試しにこれをひっくり返してみます。自分が誘ったことはあっただろうか?会いに行きたいとアプローチしたことはあったかしら?
たった一回だけありました!
しかも見も知らない人だったのにブログ読んで体の使い方に対する考えや人生対する考えに共感してメールでやり取りしたあと、遠方のその方に会いにいったんです。
その日、レッスンが終わり次第新幹線に乗る予定でしたが、レッスン後に師が残れる人は手伝いがあるから残るようにといい出したのです。
いつもの私ならいつ何時でも踊り優先で別の意見を述べたことはありませんでした。この後用事があるので帰りますと言ったとき、全員が驚いたのを覚えています。
遥々会いに行ってお話を聞いて、結局その一年後に思いがけず独立するきっかけになる最初の一歩になったのでした。
マグマが溜まって爆発するように
思い返してみると、身体の使い方や表現の学び、これからの踊りについて深く深く考えていたからこそ、その人を知り会いたいと強く思い、しがらみを振り切って会いに行ったのです。
そう考えると出不精であろうと人付き合いが悪かろうとマネタイズが下手だろうというのはとるに足りない問題かもしれません。
今、の自分がそうであるだけで、打破したいだけの望みがあればマグマが溜まって爆発するように行動出来ているからです。
私は相変わらず表現について、これからのダンス人生についてが興味の対象にあります。ここに触れる何かに出会ったときに今までの悩みは何だったのかと思うくらい行動できるように思っています。
それは…遠くない未来のようです^^なぜなら私は今ワクワクしながら行動しようと考えているからです。それは周りから見たら非常識でなんの得もなく意味もないことですが、このワクワクを大事に動いてみたいと思います。
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