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あれから12年 FUKUSHIMAと共に

東日本大震災から、12年の月日が経つ。地震、その後の津波と立て続けに大きな天災に見舞われる中、福島第一原子力発電所の爆発により福島県双葉郡から県北方面へ大量の放射能が放出された。

今回、私たちは東京近郊で当時震災を体験したメンバーと共に現地を訪問した。その時の体験は12年経った今も鮮明な記憶なようでいて、過去の記憶となりつつある中での訪問であった。
様々な方々にお会いする中で、福島の皆さんが語った言葉のひとつひとつ。それは、彼らの苦悩を私たちが簡単に想像することができないと感じさせるものだった。

訪問の記録

福島駅を降り、私たちは福島市から伊達市を経由して川俣町山木屋地区へ。そして双葉郡浪江町、富岡町へと巡った。

伊達市

まずは、伊達市五十沢地区の果樹農家である曳地一夫さんを伺った。ここは避難指示区域ではないが、曳地さんは震災後の2年間全く果樹栽培ができなかったと話した。今もなお生産するあんぽ柿は全て放射能検査を行い、通常よりもより高い基準値を設定しているとのこと。努力をすることで消費者のみなさんに「安全で」美味しい果物を届けているとの話を伺った。

川俣町

次に川俣町山木屋地区へ向かう。ここは原発による計画的避難区域に指定され、2017年3月31日に解除された地区である。この地区では、震災前に子牛を育てて生計をたてていた大内孝雄さんと、震災後に県外から移住し、新しい農業を目指し挑戦をしている谷口豪樹さんにお会いした。

大内さんがひとつひとつ噛み締めながら語るお話は重みがあり、一つの日にちも忘れることなく話される内容は、時間の流れの重みを感じさせるものであった。
原発から約30km離れたこの地にも爆発音が響いたというその時の風景が、お話を伺いながらも脳裏に浮かんだ。飼育していた牛を手放し、一度は地域を離れた大内さん。戻ってきてから花の栽培や在来のそばづくりなど、新たな挑戦に取り組む姿にはただただ心を打たれるのみであった。

一方で、震災後に移住し山木屋地区で農業を始めた谷口さんは、一度ゼロになってしまった地域だからこその川俣町の可能性を語った。常に挑戦し続ける彼らの情熱に、私も新たな可能性を感じた。

浪江町

その後、避難指示区域の中でも警戒区域とされている浪江町へ。
「まちづくりなみえ」の菅野孝明さんからお話を伺い、福島の復興を超えた先にある学びに気付いた。つらい経験を経たからこそ、私たちの未来にも繋がる生き方がそこにはあった。建物の周りに広がる風景を眺めながら、モノと情報に溢れた社会からちょっと身を遠ざけてみることで時間の豊かさを感じられる場所が生まれるように感じた。

富岡町

浪江から富岡に向かうと、その道中の風景はまだまだ異様というか違和感に包み込まれる。福島第2原発が正面に見える海沿の丘に、富岡ワイナリーの葡萄畑はあった。

海を臨み、原発を見ながら、「とみおかワインドメーヌ」の大和田剛さんと細川順一郎さんからお話を伺った。細川さんは、山梨でワインづくりを行っていたが、代表の遠藤さんと出会い、その情熱に引き寄せられて富岡にやってきたそう。想いだけで葡萄栽培を始めている現状を見ながら、富岡でのワインづくりの可能性を目を輝かせて語る様子に私たちは引き寄せられる。細川さんが語った「ワインを通して繋いでいくこと」というビジョンを聞いて、今はまだ土色の富岡駅周辺にぶどう畑が広がっていく風景を思い浮かべてわくわくしたのだった。

福島からFUKUSHIMAへ、これからの12年へ

初めて福島を訪れ、復興被災地を見た。
その中で、12年も経つのにまだまだ復興は進んでいない現実を知った。
そして被災地もひとつではなく、地域ごとに全く異なることも。
12年も経っているのに、でもまだ12年しか経っていない。
復興にむけて道半ばの現実を見ることができた。

一方で、お会いした皆さんは12年をかけて多くの苦難に襲われながらも、常にそれを乗り越え未来を切り拓こうとしていた。その力に、私たちは多くの学びを得ることができる。

12年たった今、福島のためにお手伝いをするのではなく、福島が復興にむけて努力をしている経験を学びに変える必要がある。その学びを、福島や日本国内に留まらず、これからの地球環境のなかで暮らす世界中の人たちと共有することが大切ではないだろうか。
FUKUSHIMAと共に、地球全体の友人たちとつながりを広げながら、これからの未来を切り拓く力を生み出したい。

2025年に富岡ワイナリーが本格的にワインづくりを始めたら、そこで造られたワインで世界中の友人たちと乾杯することを夢みている。まずは2023年の3月11日に、話し合うことから始めていきたいと思う。


関連プロジェクト

タクラムプロジェクトふくしま(協力:経済産業省)

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