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五冊目『マルクスその可能性の中心』柄谷行人 感想

世界を世界たらしめているものとはなんであろう。なぜ、世界はこのようになっているのか。その問いがぼくらを「読むこと」に向かわせる。「読むこと」は世界を理解しようとする、志向性である。

ぼくらが読んでいるものはジャンルによって分類されている。
例えば小説、評論、詩など。そして小説の中でも、ミステリー、SFに細分化される。
分類とは何だろう。なぜ人は作品をーーいやそれに限らず人だってモノだってなんだって、分類し細分化し整理するのだろう。それは人類が対象を解釈しやすく、わかりやすくするために分類していったのではないか。人はよくわからない対象があることに耐えることができない。

そうやってぼくらは世界を読み、理解する。
本当に世界がそうなのか、そもそも世界があるのかは横に置いといて。

しかし、その世界を分類する読み方とは逆のベクトルにいくことがある。
対象は分類不可能ではないか。作品を例にすると、フィクションとノンフィクションの違いはあるのだろうか。まったく現実を反映していないフィクションはありえない。書く側も読む側も自分が現実として全く体験していないことは書くことも読むこともできない。一方ノンフィクションは完全なる現実であるのだろうか。

このように、「読むこと」とは行ったり来たりするコントロール不可能な運動である。

『マルクスその可能性の中心』は「作品を読む」ということから始まっている。「作品を読む」とはいかなる外的なもの――例えば、作者の意図だったり、党派的なものだったり――を前提とせずに対象と接することである。

マルクスは『資本論』でこのような言葉を残している。

商品は、一見したところでは自明で平凡な物のようにみえる。が、分析してみると、それは、形而上学的な繊細さと神学的な意地悪さとにみちた、きわめて奇怪なものであることがわかる。

ぼくらが商品を読む際、それは平凡のように見えてしまう。なぜ商品が平凡のようにみえるのか。それはなにか外的なもの――日常生活や経済活動――を通して商品を見ているからである。その外的なものを取り払い、「作品を読む」ように商品をみると非常に奇妙なものに見えるのだ。マルクスはここから資本主義の分析を始めている。

マルクスはこのように商品を読んだ。それと同じ姿勢で、ぼくらもマルクスを読まなければ、読んだうちに入らないと柄谷はいっている。

外的なイメージとはそれ自体が商品のようである。それをいかに打ち壊し、瓦解させるか。読むことはそこから始まるのだ。


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