インターネットに祝福された日
前略
Twitterで繋がった人と時たま話をする。彼ら彼女らは本当によくできた人たちで、私の話を聞いて受け止めた上で応えを返してくれる。またこいつは変なこと言ってるよという目で黙り込んだり、またおかしなことを言っているからネタにしようと雑な冗談にされてしまうことがない。敬意を持って接してくれている。敬意を持ってくれていると書いたけれど、詰まるところ私は周囲から敬意を持たれていなかったんだな、と思う。
突然だけど、違国日記という漫画の話をする。します。ヤマシタトモコさんの漫画で、人付き合いの不得手な小説家が苦手だった姉の子供を姉の死後に引き取るお話である。他人と暮らすということ、言葉や対象との距離の描き方が丁寧でとても好きだ。読んでいて印象に残るセリフがいくつもあるけれど、その一つに
「あなたは 15歳の子供は こんな醜悪な場にふさわしくない 少なくとも私はそれを知っている もっと美しいものを受けるに値する」
というものがある。 今にも親族間でたらい回しにされようとしている15歳の子供に向かって、あなたはもっと美しいものを受けるに値するのだと小説家の彼女は言う。それは敬意でもあり、尊重だ。ともすると祝福にも思える。
たぶん、15歳の子供も、70歳の老人も、誰もが美しいものを受けるに値するし、そんな醜悪な場にふさわしい人間なんていないのかもしれない。翻って考えると、私は尊重されて敬意を払われてもよい、そうされるべき人間だったのかもしれない。無理をしてピエロじみた振る舞いをしなくてもよかったのかもしれない。自分自身の価値を貶めなくてもよかったのだ、と今になって思う。人に必要とされたくて自らを卑しめる行いをしてしまったのも、その時の私の精一杯だったのだろうけれど、もうそんなことをしなくていい。しなくていいところで私は生きていけるはずだと思う。
世界は言葉でできていて、キャラだとか天然だとか、他人が私を定義する言葉に絡めとられることもあるけれど、私は私を定義する言葉を自分で見つけて選んでいくことができる。そうして私を構成する私らしさを見つけて愛せたらいいと思う。
Twitterで関わってくれる方にいつも感謝しています。あなたがくれる言葉に見合った自分であろうといつも身を引き締める思いです。私も私の人生を素晴らしいものにできるように頑張りたいと思います。それが私にできる、あなたがくれた言葉への返礼だと思うからです。
草草不一