ちりつもでようやく気付けた、自分の親が毒親という真実。2
第一回目の続きです。
今日、父に電話をしてみたら、母と姉は二人だけで父親の見舞いに行ったようです。自分には何の連絡も寄越さないのに(笑)
自分は父が入院した直後に母に連絡をした際、見舞いには行けないんだよって言われたのでてっきり面会は無理なのだとばかり思ってましたが、そんな事なかったようです。つまり俺をハブりたかったようですね。
まぁいつもこういう感じだったので、今更それをどうこう言うつもりはないのですけど。
多分こういう小さい積み重ねで、自分は家族からハブられているなあって思って生きてきたのだと思うんです。
俺には何の連絡もせずに姉と出かけたり旅行に行ったり、事後報告されて私も行きたかった、って言っても、
「だってあんた仕事じゃないの」
そりゃそうだけど、先に言ってくれれば都合つけたのに……なんてことが数知れずあって、もう合わせるのも無理って諦めました。
今回は自分が一人暮らしを始めてから今に至るまで、そしてようやく気付けた母親が毒親だったという事実をつらつら書いていこうと思います。書いて、過去の事は禍根に残さないようにするために。
そして未来を幸せに生きてやる! って思うために、母に言いたかったけど聞いてくれなかった事、手を差し伸べてもくれなかった事、そういう事をすべて水に流すためにもね。
4.一人暮らしを始めても垣間見える姉への過干渉と、姉の結婚
一人暮らしを始めて両方の娘が居なくなった後、母は相当寂しかったようです。父親は亭主関白なので今迄母の味方だった娘二人(どちらかいうと俺は無関心)が居なくなったせいで、父をセーブする事が割と大変だったと思います。
そのためかよく姉の部屋には入り浸っていたようです(笑)。
俺の借りてる部屋にも一度来たことがありますが、
「お前の部屋は姉さんと違ってどうたらこうたら」
と、まあいつもの如く愚痴だけこぼして帰っていったことが一度ありました。それ以来母を部屋には上げたことがありませんw
一度警察沙汰になる位の事をしてまで侵入して来ようとした事もありましたけど。(後述)
親は両方とも、俺が一人でやっていけると思っていなかったようです。そして俺が姉より金を稼ぐのも面白くなかったようですね。いじめられっ子で欠点ばかり(実際そう言われた)のうだつが上がらない奴がどうして仕事を変えず長く続けていられるんだと、母は相当悔しがったと思います。
姉は逆に内定を受けた学生当時はいい会社に入れたものの、一年経たずにリストラに遭い、その後は派遣社員で点々と食いつないでいる身分だったのと、俺は正社員でずっと食っていけるのが気にくわなかった様子でした。
まぁ俺はそんなお金をあまり使わず(1に書いた通り)いつか逃げる時の逃走資金として貯めこんでたのもあって、独り暮らしで困ったり苦労はほぼしていません。
親に無心なんてしようものなら、それこそ相手が俺を責める燃料を投下するようなものでした。
そんな感じで一人暮らしをしていた、ある暑い夏の事でした。
姉から電話がかかってきて、どうも具合が悪い、熱中症のようだ、という電話でした。
俺と姉は隣同士の市に住んでいましたが、姉の家まではバイク(中の人は二輪乗りです)で走らせても30分程度はかかるため、辛いなら救急車呼びなよ、エアコンつけて大事にするんだよ、と言って電話を切りました。
その数時間後、深夜前くらいだったかな。
突然電話が鳴って、慌てて出ると母親の声でした。なんでも姉が熱中症にかかったようで、姉が救急車を呼び、親に電話をしたのか今病院に向かっているところだ、という話でした。
その時母はこういったんです。
「何で姉さんの所に行かなかった! お前が行って救急車なり呼べばよかったのに!」と。
いやいやいや、子供じゃないんだよ? それに両親が病院に行く事もないでしょ、って言ったのですが、
「お前はそういう冷たい奴なんだよね。姉さんが一大事なのにそうやって一人のうのうとしてるなんてひどい奴だよ、まったく」
と言われ、ぷりぷり怒りながら電話を切られました。
何故俺より三つも上の人が親を召喚するのか、俺には全くもって理解できませんでした。入院するとでも思ったのかもしれませんが、熱中症と言っても軽度のものだったらしく、軽い処置を受けただけで帰って良いと言われただけだったようです。
原因は、姉が暑いのに水分補給もせず部屋に居たせいでそうなってしまったので、結局のところ自己責任なのですけど、まぁそこは俺の親、姉をよしよししてたのは言うまでもありません。
それから数年後、中の人は仕事の関係で鬱病を発症し、心療内科に通う事になりました。
その事を親に報告したら、親はなんといったか想像つきますかね?
あの時と同じ言葉でした。あの時というのは、自分が同級生にいじめられているんだ、と親に言った時と同じ言葉です。
「困ったなあ」
これでした。
姉が熱中症なった時のような電光石火の行動力なぞ見せもせず、独り暮らしをしている俺に何か言ってくる事もせず、無関心を決め込んでました。両親共々です。
たまに罰が悪いように、メールで具合はどうだ、と言ってはきますが、それだけ。こちらの話なぞ聞こうともしません。
その頃そんな状況でしたから、自分はとても辛く苦しい時期でしたが、親は手を差し伸べるどころか、
「お前鬱病になんかなって、仕事はどうするんだ、辞めるのか」
「辞めても家に置かないから、帰ってくるんじゃないよ」
と、これに近い言い回しを何度も受けました。親は一切、あてにはなりませんでした。俺の身体の心配どころか、仕事の方を心配しているのです。自分がやってる仕事じゃないのに。
辞められたら帰ってくるのが目に見えたから、それが怖かったんでしょうね。
俺の立場はその頃、「仕事は出来るし一人暮らしも出来るが、それだけの娘」程度にしか思われていなかったのでしょう。
やっぱり俺はこの家にいる人間じゃなかったのかなあ、と思い返すと本当にそう思います。
だから辞めるもんかと必死で治療し、その後また発症(二度目)しましたがこれもなんとか周りの人達のおかげで回復し、今に至ってます。親の手なぞ借りもせず、自力で回復できたことに自信を持ってますw
それから数年のち、姉が結婚する際、俺は旦那さん側との両親や親類との面会はできませんでした。仕事が立て込んでいるのと、上のように中の人が精神的に鬱病になっていたのもあります。多分行こうと言ったとしても親が「お前は来なくていい」と言ったと思うんですよ。鬱病なんかにかかってる妹なんかが出てこられると恥だ、と言ってもおかしくない連中ですから。
姉は晩婚だったのもあって結婚式はしませんでした。これもやらなくてよかったと本気で思います。まぁやられても俺は呼ばれなかったでしょうが。
そうやってどんどん家族からハブられている中、姉が一人暮らしの部屋を退去し、旦那さんとの新居に引っ越す際、猫の手を借りたいほど忙しかったようで俺を頼ってきたのですが、俺はその頃仕事と原稿(コミケ)の手伝いで忙殺中。
そういう時だけは調子がいいなと思いながら、一日位なら手伝いに行こうか、と言った際、俺の意見が余程気にくわなかったのか、たまたま姉と遊びに行こうと出かけてた電車の中で、急に激昂しだしたんです。
「お前の予定なんかどうでもいいんだよ!」
こんな感じの言い方でした。俺はその言い草にとてもびっくりしてしまって、え? 俺の予定なんかどうでもいいって何? 俺は奴隷か?? と頭の中がぐーるぐる。
後に友人たちにこの事を話したら、おねーさん引越し期限が近いから余裕なかったみたいだねーって言ってましたけど、余裕がないのは分かるとはいえ、そんな言い方ってないでしょ?
朝っぱらの電車の中でそう言われ、俺はその日一日何をして遊んだか記憶にありません(4年程前の話なのにw)。
ただ、兄弟は他人の始まりって、こういう事なんだなあ、寂しいなあ。って思ったのは強烈に記憶に残っています。
5.話を聞いてもらいたかっただけ
姉が結婚してから、俺は姉に祝い金を包む気もありませんでしたけど、相変わらずそこも母が干渉してきました。
「お前はおねえちゃんにお祝い金もあげないのかい、ほんと心の狭い守銭奴だよ」
さすがにそれはイラっとしたので、身内のお祝い金は10万以上とネットにあったのを調べ、のし袋に入れて実家に帰り、これを姉に渡してやってくれと言いました。
10万で大人しくなるならくれてやる。それくらいの勢いでした。
さすがに母も父も驚いて、10万は受け取れない、2割でいいと言ったのですが、俺からすれば2万だろうが10万だろうが、心が狭いだの守銭奴だのと言われ続ける位なら、金なんぞさっさとくれてやるから大人しくしろレベルだったので、どうでもよかったんですけどね。
この頃になると、親も70近いのもあって、どんどん弱くなっていくのが目に見えてきました。
何気に自分は一人暮らししても貯蓄と投資をしていたので、夏冬の棒についた茄子などが出ると、親孝行をしようとご飯を食べに行こうと連れて行ったりしたものですが、親は喉元過ぎればなんとやらで、自分がやった事よりも、姉から受けたものの方が嬉しいらしいのは言わずもがな。
多分頼る子供の方が親はかわいいのでしょうけど、俺は頼るだけで突き放されてきたので、この差は本当になんだったんでしょうね。
それが嫌で辛くてつらくて、数年前に一度暴走しました。そのきっかけは、姉が結婚したからお前も結婚しろ、と言わんばかりにこの期に及んで過干渉をしてくる親のせいでした。
今迄ほったらかしにしてきた挙句、俺がいじめられていた時に何されたかも、何もしてきていないのも知っているのに、結婚しろとどの口が抜かすんだと、相当荒れました。
その荒れ具合に痺れをきらしたのか、両親が俺の部屋に怒鳴り込んできたのはとある冬の夜。18時位だったかな。
突然事前連絡も寄越さず突撃してくる親。周りに住んでる人の事なぞ考えもないのか、扉を激しくノックし、挙句にはベランダの方に回ってベランダの手すりをよじ登り、窓をがんがん叩く母親の姿。
この時耐えられなくなり、俺は110番通報しました。
「誰かがドアと窓をがんがん叩いてくるんです! 怖い!!」
その頃鬱病の治療中でもあったので、親だと分かっていてもすごく怖かったです。部屋に入ってくるなりビンタか殴られるのは目に見えてました。
警察がきて、余所面がいい親は「いやー違うんですよお巡りさん、私と家内はただ娘の様子をみにきただけでー」と抜かしてたのを俺ははっきりと耳にしてます。
嘘つけ。
今迄様子なぞ見に来たこともない癖に、どの口が「様子を見に来ただけー」なんて言うのか。本当に腹が立ちました。
警察は民事不介入なので、仲直りしてくださいねーとか、ご近所さんに迷惑になるからーと言って、親はようやく去って行きました。
お巡りさんの手を伝って、母がもってきた食料品は全部捨てました。
気持ち悪かったからです。
それからは親は暫く静かになりました。警察を呼んだ俺の事が許せなかったのでしょう。
母とはLINEで繋がっている(今は切っている)ので、たまに様子をみるように来ましたが、俺は返事をしたりしなかったり、といった具合でした。返事をしても相変わらず、聞いてないのは目に見えてましたので。
親の言いなりになって一度だけ婚活をしたこともありましたが、俺は長年親から受けてきた事で、自分に自信がなく結婚相手がいたとしても、俺と結婚すればあの酷い親とかかわりになる、そうさせるのは辛すぎると思い、未だに独身です。
そんな中、父が入院する事態になり、俺はまた関わりたくない人達と関わる事になるのが嫌なので、父の見舞いにはいきたいけど、行かないつもりです。コロナもありますし。
会いに行ったら、多分自分をばい菌扱いしてくると思います。
小学校で俺をからかった同級生たちと同じように。
結局のところこの長い話を通して見えてきたのは、
「毒親は話を聞いてくれなかった」
これに尽きると思います。
いつまでも俺を心の中で蔑み、馬鹿にしてきたのは分かっています。
俺が家族で誰もやらない事を成し遂げたりすると、母は大体、最初は疑ってかかってきました。
二年ほど前、一人で海外旅行に行った時もそうでした。
「どうせお前は嘘をついている」
そういう態度がありありと伝わってきたのを、旅先で感じました。
そして俺が本当にやってのけているのが面白くないのか、返事はそっけなかったり、つまらなさそうに受け答えたり。
帰ってきてお土産を渡した時も、旅先の話もしましたけど、
聞いているのか聞いていないのか、何かをやりながら聞いたりする態度だったのも、しっかり覚えています。
俺は本当になんのために生まれてきたのだろう、と思い悩むことが何度もありました。この全編通して。
勿論母も父も、間違っていないと思っているからこういう事をしてきたのでしょう。お前は(両親の)手を借りなくてもやっていける子だ、とでも思っているのかもしれませn。
でも結局のところ、こういう事だと思うんです。
「あなた方両親は一人分の愛情しかもっていないだけで、もう一人には我慢しなさいねと言っているだけに過ぎない」
我孫子武丸先生の著書に、「僕らの推理研究」という本があります。
そこの話に出てくる、ある家族の長女が、俺の境遇ととてもよく似ていました。
両親は手のかかる妹ばかり目を向け、長女は放っておいてばかり。
でも長女は学校にも居場所がなく(いじめられてはいなかったが)、家にも居場所がない。母親は話を聞いてくれない。
悩んだ挙句、長女が下した決断は──というお話。決して血腥い話ではなく、最後はよかったね、って思える話です。
そこに出てくる探偵役が、彼女の立場を的確に読み取り、両親に引用の台詞を叩きつけるのでした。
俺の両親もそうだったんだと思います。
一人分の愛情しかもっていなかった。だから俺には我慢しろと言っただけだった。と。
親も被害者だったのかもしれません。でも一番辛いのは俺だった。
どんなに頑張っても、いい仕事に就いても、話を聞いてくれなかった。
だから俺は手放そうと思って、これを遺します。
話を聞いてくれなかったのなら、聞いてくれる人を探そうと思います。
未だに俺は自分の事を上手く話せませんけど、上手く話せるようにならないと多分、次のステップに行けないと思うので。
世渡り下手で、生きるのが下手ですが、そんな自分が俺は好きです。
そんな自分が好きになってくれる人と出会いたいために。
頑張ろうかな。生きる事を。