言葉と心
心の窓
言葉
それは心の窓だと思う。
同じ言葉でも覗く時々によって見える景色が変わる。
同じ言葉でも覗く人によって見える範囲が変わる。
言葉を見ればその人の思考が覗け、
言葉を変えれば思考や心も変わるのだと思う。
本当の景色を眺めるためには、頭でその意味を理解するだけでは十分ではない。
自らの経験と向き合った時間で、頭から心にその意味をそっと落とし込めた時、純粋で深みのある表情を眺めることができる。
そしてその表情は変化していく。
自分が過ごしていく中で得た知識、経験がその窓縁を広くさせたり狭くさせたりする。
言葉をいい加減に扱うことは簡単だ。
ただ、それは自分の心をぞんざいに扱うことと同じことだ。
心と言葉をつなげることは難しい。
言葉は気持ちを伝えるにはあまり便利ではない。
本当に伝えたい想いほど上手く伝わらないことが多い。
それでも僕は言葉を諦めたくない。
想いや感情を表現するために言葉を大切にし、丁寧に選ぶことは誠であり、それが積み重なることで愛になっていくのだと思う。
気持ちを伝えるということ
僕は気持ちをシンプルに相手に伝えられるようになりたい。
気持ちを伝えることにはいくつかの壁が存在する。羞恥心、不安、勇気、、など。
その壁はなくならないかもしれないが、その高さを少しずつ下げていき、軽やかに飛び越えられるようになれば、、と思う。
ある時、僕は無意識に自分の気持ちをストレートに表現するのではなく、無造作に言葉を言い換えて口に出していることが多いことに気づいた。
こんなことがあった。
上の学年の子が僕に対して、ちょっかいをだしてきた。
その時の僕はやることがあり、いつものようにちょっかいにかまっている暇はなく、今はやめてほしいなと思った。
その時、僕は「上の学年なんだから、下の学年の子のお手本になるように、そういうことはしないでしっかりしてほしいな」
とその子に伝えた。
しかし今思えば、あの時の僕はその子に対してとてもひどいことをしてしまったなと反省している。
というのも、この時の僕は自分の気持ちをストレートに伝えずに、遠回しで伝えていたからだ。
本来、自らの感情や気持ちを相手にそのまま伝えることは自然なことだ。
だが、相手を傷つけてしまう、嫌われてしまう、気まずくなる、、などと複雑で重層的に考えることで不自然な形を生み出す。
僕は心で子供と繋がるのではなく、頭で繋がろうとしていたのだ。
頭で繋がることは偽善的だ。
相手を思いやっているようで本当は自分の都合にしか目を向けていない。
頭で繋がることは本当の意味で自分も相手も幸せにはならないのだと思う。
そして、心で繋がることは対子供においてはより大切な意味を持つ。
シンプルに気持ちを伝えるというだけなら、純粋に澄みきった形で子供に伝わる。
しかし、それをストレートに伝えないことは、自らの偏見や固定概念という不純物が加わった濁った形で子供に伝わるということだ。
あの時の僕は、「上の学年なんだから」などというもっともらしい理屈をつけ、僕自身の
"子供に嫌われたくない"という弱さを婉曲表現を使うことで守っていたのだ。
結局、自分のことしか考えず、本当に大切な目の前の子供のことを疎かにしてしまっていた自分自身が、本当に情く感じた。
僕の在り方や行動の1つ1つが、子供に様々な形で影響を与えうる。
そんなことを突きつけられたような気がする。
今の僕もそうだが、教育の最前線にいる人たちは皆その責任やリスクを抱えながら、過ごしているのだと思う。
だからこそ、毎日丁寧に自分と向き合い、
折々の選択を丁寧にしていきたい。
相手を変えるのではなく、まず自分が変わる
今までの僕は、心のベクトルが内(自分自身)ではなく、外(子供)に向いていた。
どう子供たちに伝えよう、どう子供たちを変えていけるだろう、、と。
しかし、考えるべきことはそれだけではない。
僕自身が変わる。
まずはそこから始まるのだ。
自らが行動を起こし、自らの態度で子供たちに示していく。
子供を変えていくのではない。
僕自身が変わることで子供も変わっていくのだ。
僕が大切にしたいことは、自分の心の底にある本当の気持ちをキャッチし、それを言語化して相手に伝えること。
そして、相手の気持ちを受け止める(認め合える)ことができることだ。
今、僕は自分が大切にしたいことをにできているのだろうか。
いや、僕はまだできていないというのが現実だ。
これは子供たちにできてほしいことでもあり、僕自身ができるようになりたいことでもあったのだ。
この気づきを次に繋げたい。
気づいたいた時に蔑ろにしないで立ち止まること。
止まったままではなく、再び新たな一歩を踏み出すこと。
この2つは人生でどちらも大切だと思う。
"気づいた時に立ち止まり、また歩みはじめる"
その繰り返しが道を拓き、道を創るのだと思う。
"言葉と心"
あまりにも当たり前のことのようで、すでに分かりきった気でいたが、そうではない。
今になって、ようやく目をあわせられたのだ。