『ぼくが生きてる、ふたつの世界』感想
「生まれる場所は選べない」
両親ともろう者の元に生まれた主人公にとって、それが分かりやすく「他の子と違う」ことだった。
偏見やいじめや悪気のない善意や興味に逢うたびに、「違うこと」に傷付いてしまう。
傷付くのは、母や家族への愛があるから。それを傷付けるものに傷付けられる。
それを次第に煩わしく思ってしまう。なんで「違う」んだと責めてしまう。そうしたい訳ではないのに。
両親が「ろう者」であること、自分が「コーダ」であること、それが分かりやすく「他と違う」ことであったけれど、この作品で描かれているものは、ただただ普遍的な家族の物語だった。家族の間で起こる摩擦、「愛」なのか「情」なのか、それでも切り離せない「繋がり」。
生まれる場所は選べない
逃げることもできない
たまに逃げてみたり逃げようとしてみたり
でも逃げられなかったり逃げなかったり
それも全部「自分の」人生。
聴こえない人も聴こえる人も他に違いがある人も
みんな「自分の」人生。
主人公は「東京に行けば"普通"でいられる」と言った。「普通」とは「耳の聴こえない両親の子ではないこと」だと言った。
「東京では誰も俺を"耳の聴こえない親がいる子"として見ない」
けれど、それを求めて東京に行ったはずなのに、気づけばろう者の知り合いが出来、手話のサークルに属している。ろう者と手話で会話をすることは、主人公にとって「自然」なこととなっているのだと思う。
鼻歌を歌うみたいな
音楽を聴くみたいな
本を読むみたいな
楽器を演奏するみたいな
運動をするみたいな
それを「する」人にとっては「自然」なこと。
それが主人公にとって「ろう者と手話で会話すること」。その環境に身を置くこと。
家から離れて見つけた自分の居場所。
普遍的な家族を描くように、交友関係も普遍的だ。
「聴こえない」という「分かりやすい違い」はあれど、友人になること、友人との付き合い方、仕事、仕事以外の居場所、それも全てが普遍的に描かれている。「何も違いはないのだ」と。
全て受け入れて「自分の」人生を生きるという逞しさ。東京で最初に出会うろう者の女性から特にそれを強く感じた。でも主人公のおじいちゃんも、おばあちゃんも、お父さんもお母さんも、そうやって逞しく、時に何かに縋りながらも逞しく生きてきた人たちで、それがその人の「自分の」人生。
「みんなそれぞれ自分の人生を歩いているのだ」という物語。
「違う」ことで「同情」されたくない。
「変わらないのだ」ということが清く描かれていたと思う。
家を出て行くと告げたあと、母と買い物に行った日の帰り道で母が言う。
「周りに人がいるのに電車で話してくれてありがとう」
母と「会話」をしているだけだ。
その方法が「手話」なだけだ。
ただそれだけだ。
そんなことが「普通ではない」と思われてしまう世間と、「普通」の方に身を置こうとしてしまう自分と、なぜそれが「普通ではないのか」という葛藤。
そういうものを含めて「普遍的」な「家族の物語」に仕上げているところに清らかさを感じる。
素晴らしい作品でしたので、まだ上映期間中ですので、ご覧いただきたいです。
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