最終学歴を得るために大学に行くのはもうナンセンスということ
高校生の娘がいる。この先大学はどこに行きたいか、どんな学部がいいのか、それこそ何を学びたいのか。そんな話を日常でする機会がある。
アルバイト先にいる大学院生と話す機会もあり、今やっている研究やゼミの話を聞かせてもらったりしている。
そこで大学について、もっと言うと学歴という概念が変わる感覚があったのでここに記録しておく。
大学は教育機関であると同時に研究機関であるということが腑に落ちた。
先生(教授)は科目を講義するだけでなく、自分の研究活動をすることが求められていて本人たちもそれを望んでいるという事実。大学には研究をしたい人、自分の興味ある学問を深めたい人が通うところ。
私は大学は社会に出るまえの準備機関みたいなイメージがあり偏差値の高い大学に行けば就職に有利で選択肢が広がるから、いわゆるいい大学に入学することが大切であるという刷り込みがあった。人の出身大学が気になり、それが偏差値の高い大学だったりすると一気に見る目が変わってしまうこともあった。
その価値観が時代的にもう古いのではないかと感じつつどうしても引っ張られてしまう。高校の保護者会に出ると昨年の進学実績を見せられ何人東大だMARCHには何人だと数字で見せられるとその枠に入れないと!と意味もなく不安になってしまっていた。この不安は何なんだ。娘には偏差値の高い大学に入ることを期待してしまう自分に違和感も感じていた。
そこで大学は研究機関であるということが腑に落ちた今。どこの大学に入るかということよりも何の研究をしたいかの方が価値として大きくなった。もっと学びを深めたいことや研究したいことがあり、それがその大学で叶えられるならば行くべきだと思うが、ただの最終学歴を得るために大学に行くのはもうナンセンスだ。
私も今でも勉強が好きであり何らかしらの研究を続けている。大学に行かなくても自分で勉強や研究を深める機会や手段は今の時代たくさんある。そして私が大学で(あの教授のもとで)学びたいと思ったら再度大学の門を叩くこともできるのだ。
何を学びたいかが先ででその学ぶ場所を決める。そこが大学かもしれないし独自のやり方かもしれない。自分のやりたいこと学びたい事をどれだけ深めていけるかがこれからの時代は必要になってくる。それが学歴となってその人のパーソナリティを彩ることになる。今はまだ就職には大卒であることが求められているがそれも時代と共に変わっていくと思う。独自性、自分は何に興味があって何を学んで、今も研究を続けているか、それが強みであり学歴に変わるものになる。