見出し画像

「山水経」メモ⑪

 しるべし、この「東山水上行」は仏祖の骨髄なり、諸水は東山の脚下に現成せり。このゆゑに、諸山くもにのり、天をあゆむ。諸水の頂寧は諸山なり。 向上直下の行歩、ともに水上なり。諸山の脚尖よく諸水を行歩し、諸水を趯出せしむるゆゑに、運歩七縦八横なり、修証即不無なり。

『正法眼蔵』(二)岩波文庫

「しるべし、この『東山水上行』は仏祖の骨髄なり、諸水は東山の脚下に現成せり。」

《知るべきである。この「東山水上行」は仏祖の骨髄なのである。もろもろの「水」は「東山」の脚下に現成するのだ。》

仏祖の骨髄は、「東山水上行」という修証そのものである。もろもろの「水」、つまり仏性は、仏祖の骨髄を体現するもの(=東山)の具体的な修証のなか(=脚下)に現成するということだろう。仏性は誰もが本来もっているのだから、何もしなくてもそれに気づくだけで自然と現れるなどということはありえない。

「このゆゑに、諸山くもにのり、天をあゆむ。諸水の頂寧は諸山なり。 向上直下の行歩、ともに水上なり。」

《このゆえに、もろもろの「山」は雲に乗り、天を歩む。もろもろの「水」の頂上はもろもろの「山」である。向上(進歩)直下(退歩)の歩行、ともに「水」の上である。》

「山」である本分に目覚め、仏祖の骨髄を体現する者たち(=「諸山」)は、雲に乗り、天を歩むように自在に生きていく。それらの歩み(「進歩」「退歩」)はすべて「水」の上で行われている。「水」(仏性)は「青山」(法身)という真の自己から来ているものだからである。

「諸山の脚尖よく諸水を行歩し、諸水を趯出ちっちゅつせしむるゆゑに、運歩七縦八横なり、修証即不無なり。」

《もろもろの「山」の脚先はよくもろもろの「水」の上を歩き、もろもろの「水」を躍るように生き生きとさせるのであるから、「山」の歩みは縦横無尽である。修証はすなわち無きにあらず、である。》

仏祖の骨髄を体現するもろもろの修行者による具体的な修証の歩みが、それぞれの「水」(仏性)を本当に生きたものにする、ということだろう。

「修証即不無」(修証はすなわち無きにあらず)は、南嶽懐譲禅師のことばである。本来の自己は言葉では表現できない事実である(=「説似一物即不中」)が、だからといって、修証が無用だというのではない。むしろその事実をよりはっきりとさせていくことが本当の修証だということだろう。そのなかから生まれたことばが「青山常運歩」であり「東山水上行」である。


いいなと思ったら応援しよう!