「現成公案」メモ⑭
「しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。」
そうであるのに、水を究め、空を究めてから、水や空を行こうとする鳥や魚があるとすれば、水にも空にも「道」を得ることができないし、「処」を得ることができない。
「道」と「処」
ここで「道」と「処」というキーワードが出てくる。もちろん、ここで鳥と魚を比喩に伝えようとしているのは、仏道のことである。
メモ①にも書いたが、これは『法華経』(如来神力品)の「即是道場」から来ている。もう一度、引用する。
「当に知るべし 是の処即ち是れ道場なり。諸仏ここに於て阿耨多羅三藐三菩提を得、諸仏ここに於て法輪を転じ、諸仏ここに於て般涅槃したもう。」
自己が生きる「処」が自己の真理、つまり「道」の場であり、諸仏は〈ここ〉において無上なる悟りを得、諸仏は〈ここ〉において法を説き、諸仏は〈ここ〉において涅槃に入ったのだという。
自己の生きる〈今、ここ〉が仏の道であるから、〈今、ここ〉を離れては、仏の悟りも、仏の説法も、仏の涅槃も、ありえない。ただの空論にすぎない。
「このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。」
この「処」を得れば、この行いにしたがって公案が現成している。この「道」を得れば、この行いにしたがって、それがそのまま公案の現成となっているのである。
「公案」は本来の自己への問いであり、答えでもある。
自己の生きるこの「処」から外れず、その場と一如となって行われる日々の自己のありかたにすべて「公案」(本来の自己への問い)は現前している。そして、この自己の「道」を得れば、日々の行いがそのまま「公案」(本来の自己のすがた)の現前となっている。
「このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑにかくのごとくあるなり。」
この「道」、この「処」、それは、大きいのでもなく、小さいのでもなく、こちらのことでもなく、あちらのことでもなく、過去からあるのでもなく、今あらたに現れるのでもない、それゆえに、かくのごとくあるのである。
「この」と道元禅師は強調している。「この」とは〈今、ここ〉という意味である。それは「大と小」「自と他」「過去と現在」などの自我の認識している二元的な世界の話ではないということである。
それら自我の二元性をすべて「~にあらず」と否定し尽くしたところに、かくのごとく(如是)ある、つまり、あるがままにある自己のありようが、この「道」であり、この「処」である。