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「十界」について②

前回、十界のうち「六道」について書きました。

続いて仏道について書いていきます。


「声聞・縁覚・菩薩・仏」の仏道

「声聞・縁覚・菩薩・仏」が仏道と呼ばれます。仏道は輪廻する六道そのものから解脱する道ですから、三悪道(地獄・餓鬼・畜生)にも三善道(修羅・人間・天上)にもとらわれない智慧を養う道です

ちなみに、スピリチュアルの世界における「引き寄せの法則」は波動を上げて下位の天上界の喜びを目指すものなので、解脱を目指す仏道とは関係ありません。巷にあふれるポジティブシンキングなども同様です。

また仏教と称して人間的な道徳を語ったり、仏教を科学や実存主義的な哲学に回収してしまうような言説、または”禅的なもの”と相性のいいエコロジー的言説など、それ自体の善し悪しは別にして、どれも人間界に属すため、仏道ではありません。
なぜこれらが人間界に属すのかといえば、どれも人間的な自我を前提にした考えだからです。どれも世界を実体視しているため、自我の範疇です。それは仏教の基本である「無常・苦・無我」に反します(繰り返しますが、これは「善い悪い」の話ではありません)。

無常・苦・無我

あらためて「無常・苦・無我」について考えてみたいと思います。
仏教では諸行無常と言われます。「行」(サンカーラ)とは「かたちづくられたもの」「条件づけられたもの」などの意味がありますが、業(カルマ)と似た意味を持ちます。つまりこの世界のすべてはアラヤ識から生じた「条件づけられたもの」にすぎず、それらはただ因果因縁のままに生じては消えていく無常なものです。

無常な世界に本当の平安はありません。世界は無限の過去からの業データによってただ条件づけられて存在しているだけなので、そのなかで生きる誰一人として自由な存在などいません。「私は自由に人生を謳歌している」と思っていてもそれはただの錯覚です。ですから、すべては苦(ドゥッカ)であるといいます。仏教の認識では地獄界から天上界までのすべてが苦の世界です。なぜなら無常だからです。
そして無常な世界には「私」と言えるような実体などどこにもありません。体も心もすべては無常であり無我です。

言うなれば、この世界はアラヤ識から映し出された夢幻です。この現象世界に本当の自分などいないのです。

『金剛般若経』にはこう書かれています。

「一切の有為法(=現象界)は、夢・幻・泡・影の如く、露の如く、また、電の如し。まさにかくの如き観を作すべし。」

普通の感覚では、こんなことを言われて、これは素晴らしい教えだ、と思うひとのほうがおかしいかもしれません……。
ですが、無常という事実に心底、ゾッとさせられたひとならば、本当にこの世界から解脱したい、つまり目を覚ましたいと思い、仏の教えに耳を傾けるようになるかもしれません。
ならないとしても、それが別に悪いわけではなく、それはただ、まだ目を覚ましたくない、という心のデータがあらわれているというだけです。目を覚ましたいのか、覚ましたくないのかという心の問題だということです。

仏道を学ぶということは、目を覚ますこと、六道そのものから解脱することを学ぶことです。

「声聞・縁覚・菩薩」の三乗

「声聞」とは自分の解脱を願って仏の教えを聞き、学び、実践する者です。

「縁覚」とは「独覚」ともいいますが、無常・縁起の道理を悟り、独りで隠遁してしまう者です(昔の仙人みたいな感じでしょうか)。

「菩薩」は仏の教えを実践しながらも衆生から離れず、むしろ衆生を目覚めの方向に導こうとします。

大乗仏教には声聞と縁覚を「小乗」、菩薩を「大乗」として差別する考え方がありますが、『法華経』では三乗は方便であり、その本質は同じである、すなわち仏道には「一仏乗」あるのみとしています。たしかに声聞も縁覚も菩薩も解脱を目指す点ではすべて同じです。ただ、それぞれ仏道を志す心のあらわれ方に違いがあるということだと思います。

仏の心とは

では仏の心とはいったい何なのでしょうか。

「心」とはアラヤ識のことであると書きましたが、『大乗起信論』によればアラヤ識は同時に「自性清浄心」(全く穢れのない仏の心)でもあるといいます(アラヤ識の考え方は唯識思想と『起信論』とでは微妙に異なりますが)。

「心」はひとつですから、衆生の心も、仏の心も、本来同じものです。
ひとつの心(=「一心」)が、衆生による迷いのほうに傾けばアラヤ識となって無常の現象世界を展開させ、逆に、その迷いが完全に晴れれば自性清浄心である仏の心になります。つまり、アラヤ識も自性清浄心も、どちらも空なる「一心」であり、本来同じものなのですが、その方向性によって真逆の世界を映し出す仕組みになっているようです。つまり衆生の心からすれば六道をひたすら輪廻するしかない世界が、仏の智慧から見れば、そのままそれが悟りの世界なのです。

分別心と無分別心

衆生による迷いの心とは分別心です(一般的に言われる”分別”とは意味が全く異なります)。それは自我および時間と空間を実在だと錯覚する心です。その錯覚の枠組みからすれば、世界は当然、空間的には自他の対立を生み、時間的には生老病死の苦しみを生み出します。それが六道を輪廻させる原因、つまり無明です。そしてその無明こそがアラヤ識です。(禅では分別心を「染汚」といいます)

それに対して仏の心は、世界には時間・空間・自我は実在しない、つまり無常であり、苦であり、無我であると如実に映します。その世界を如実に映す心そのものには時間もなく、空間もなく、自我もありません。すなわち永遠であり、平等であり、無碍です。その無分別心から見るならば、世界に問題はありません。「一心不生ならば万法に咎なし」です。(禅では無分別心を「不染汚」といいます)

仏の心は六道の世界をあるがままのすがたとして映している清浄なスクリーン、もしくは光のようなものです。

先ほど「この世界はアラヤ識から映し出された夢幻」であると書きましたが、それは同時に仏の心によって映し出された悟りの世界でもあるということになります。世界はそうした二重写しの構造になっているといえます。

衆生の迷いによる世界か、仏の悟りによる世界か、いずれにせよ世界はすべて心によってつくられているということです。

「十界互具」とホログラム構造

最後に天台仏教で言われる「十界互具」について考えてみたいと思います。

十界とは「地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界」の六道と「声聞・縁覚・菩薩・仏」の仏道を合わせたものです。

それら十の世界はすべて心の波動によってあらわれたものだということはすでに書きましたが、当然それらがはっきりと区別されて存在しているわけではありません。

自分の心を少し反省してみれば分かるとおり、座禅して仏のような静かな心地に浸っていたかと思えば、ひょんなことから怒りに心を占領され、自己嫌悪に陥り(=地獄の波動)、かと思えば、ちょっといいことでもあると有頂天(=天上界の波動)になってまた失敗したり……と、まことに心は節操がありません。

それらもすべてアラヤ識という根本の心にあるデータによるものなのですが、すべては「今、ここ」に収められています。それが縁に触れていろんな波動(=現象)としてあらわれてくるのです。
世界を見るとまるで「外側」にさまざまな問題が存在しているように見えますが、すべては心のこうしたさまざまなあらわれの結果にすぎません。したがって実体などありません。

「十界互具」とは十界のそれぞれに十界が重ね合わせられるようにたたみこまれているという意味です。
心のあらわれであるこの世界は、ホログラム構造になっているということです。

ということは、地獄界の中にも仏の世界がたたみこまれているし、逆に仏の世界にも地獄から菩薩までのすべてがたたみこまれています。
ただ、仏の心はそれらをあるがままに映しているので、それらすべてから解脱しています。

このことが意味しているのは、仮に今、地獄の苦しみにもがいているとしても、仏の心も同時に「今、ここ」にあるということです。表現を変えれば、どんなときでも仏によって見つめられていると言うこともできます。どんな心の状態であっても、仏の心から離れることなどできません。

「気づき」とは仏の心のこと

六道の心が立ち現れるとき、その中に無自覚に埋没していれば、ただ輪廻するだけです。ですが、そのことをあるがままに観ようとするとき、仏の心に触れています。
”あるがままに”とは「善悪」や「是非」などの二元性(=分別心)を用いないという意味です。それが「気づき」であり、「気づき」とは仏の心からあらわれるものです。なぜなら仏の心とは非二元性(=無分別心)だからです。

仏の心はどこか遠いところや遠い未来にあるのではなく、「今、ここ」にあります。地獄も仏も全部「今、ここ」にあるのです。

すべては「心」次第

そのことに気づいて生きていくか、気づかずに生きていくか、によって自己の世界における意味は全く変わります。

悟りの世界とは、何もない世界などではなく、すべては悟り(=目覚め)のためにあらわれている世界だということです。そうすると問題も問題ではなくなります。

世界は迷い(=眠り)のためにも使えれば、悟り(=目覚め)のためにも使えるのです。

迷い(=眠り)のために使うなら、世界はそのとおりに迷い(=眠り)を提供してくれますし、悟り(=目覚め)のために使うなら世界は悟り(=目覚め)を提供してくれます。それが因果の法則です。

そのどちらを選択するかは自分の「心」次第です。

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