「持つ」について
エーリッヒ・フロムは人の生きる様式には二通りあると言っています(『生きるということ』原題”To Have Or To Be?”)。
一つは「持つ」(to have)という様式、もう一つは「ある」(to be)という様式です。
仏教的にいうならば、「持つ」(to have)という様式は自我のマインド、つまり「有心」であり、「ある」(to be)という様式は「無心」です。
「ある」(to be)ということについては以前に書きました。
「持つ」様式(to have)と自我の関係について、フロムは以下のように言います。
実際、社会において人がやっていることのほとんどは「アイデンティティ」の獲得と保持(もしくは強化)以外にありません(それが世俗的な領域であれ、「スピリチュアル」な領域であれ)。それはいわば人生をかけての闘争です。なぜなら、それを持たないこと、もしくは失うことは「死」を意味するからです。
「死ぬことの恐れは、生きることをやめることの恐れのように見えるが、実はそうではない」とフロムは言います。
もちろん生活に必要なものを持つことには何の問題もありません。「持つ」が自我と結びついたときに死ぬことの恐れが生じます。
そして、ここでいう「〈失われた〉者の深淵」こそ、実は「ある」(to be)であり、「無心」であり、「本来の面目」なのですが、しかし同時にそれこそが自我の最も恐れるものあるというのがやっかいなところです。
世俗の領域であれ、宗教やスピリチュアルの領域であれ、いまだに、「持つ」様式によって「幸福」や「目覚め」を獲得しようとする人が多いように思います(自戒を込めて……)。ですが、それは結局、恐れからの逃避にすぎず、それでは永遠に「本来の自己」は文字どおり〈失われた〉ままです。
この恐れからの逃避によって発生するのが「時間」です。だから時間は客観的には存在しません。人びとの心のなかで生まれるものです。
「ある」(to be)ということには「時間」は存在しません。〈今、ここ〉だけです。「今」という時は「時間」ではありません。それに対し「時間」は「持つ」という様式によって存在します。
フロムは「時を尊重することと、時に屈服することとは別である」と言います。
時が本来のありかたを失い、逆に人間を支配するものとなってしまったのが「時間」です。それは「持つ」という様式によって成り立ちます。そしてその本質は「恐れ」です。「時間」の本源には「恐れ」があります。それは死への恐れですが、死への恐れとは実は「ただある」ということに対する恐れです。
実際、人間は「ただある」ということに耐えられない生き物です。「時間」とは「ただある」こと、つまり「あるがまま」(永遠)に対する恐れから生まれたものです。
興味深いのは、フロムは「ある」(to be)における思想の系譜に、老子やマイスター・エックハルトなどと並んでマルクスを挙げている点です。同書に引用されたマルクスの言葉をここで引用してみます。
マルクスによれば、「ある」(to be)ということが、そのまま自己の生命の表現であり、「持つ」(to have)ということは自己の生命を疎外することだといいます。ですから、「ある」(to be)という様式における自己の生命の表現が少なければ少ないほど、人は多くを「持つ」ことになり、それによって自らの生命を疎外しているのです。
資本は「時間」の原理で成り立っています。したがって、「今」を犠牲にし、「未来」のためにより多くを、より合理的に蓄積していくことが「幸福」をもたらすという幻想を与えてくれます。それが時間による支配であり、生命の疎外です。
マルクス主義者は、かよわき民から不当にも搾取した「より多くを持つ者たち」を弾劾し、富を公平に分配することこそ善だと主張するかもしれませんが、そもそも「持つ」ということが前提となっているかぎり、そこに本当の平等など存在しません。「持つ」という様式のなかで、コミュニズムなどという「つながり」が生まれると考えること自体、転倒した考えです。生まれたとしても、それはただ「持つ」様式における利害関係の延長にしかならないのは当然です。
資本主義が行き詰まる、ということは、そこで与えられたと思っていた「幸福」が、たんに幻想であったという事実が露呈しただけのことです。それは「時間」の幻想であり、「自我」の幻想です。ですから、マルクス主義者がいくら資本主義を批判したところで、人びとの心からそれらの幻想が消えないかぎり、何の意味もありません。形を変えて生き残っていくだけだろうと思います(もしくはマルクス主義者はそれによって儲かるのかもしれませんが)。
クリシュナムルティは「時間」の終焉が「自我」の終焉であると言っています。
本当の「つながり」は、「時間」(=自我)の限界を悟り、生きる様式の主軸が、「持つ」(to have)ということから、「ある」(to be)ということに移行した人たち(もしくは移行しようとする人たち)のあいだにしか生まれないと思います。というのも、「ある」(to be)ということが、そのまま調和であり、本来の「つながり」であるからです。
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