「現成公案」メモ②
以下、本文。
「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。」
「諸法」とはそのまま訳せば、もろもろの法(ダルマ)ということ。法(ダルマ)はいろいろな意味合いがあるが、ここでは存在を存在たらしめている「かた」のこと(「理法、軌範」※)。では、どういう存在の「かた」なのかといえば、当然、自己を自己たらしめている「かた」である。
「諸法」を”すべての存在”と捉えることもできるけれど、次の文(万法ともにわれにあらざる時節~)における「万法」と明らかに対になっているので、ここでは自己の「かた」、すなわち五蘊のことをいう。
五蘊は「色・受・想・行・識」の法(ダルマ)をいう。その法(ダルマ)の組み合わせが自己である。同時に、人間が生きている世界はこの五蘊に尽きている。
そして、それらの法(ダルマ)のどれ一つを取っても”我”と言える実体はない。諸法無我であるというのが仏法の基本である。
そのように、法(ダルマ)という存在の「かた」によって今の自己がある、という目覚めが「諸法の仏法なる時節」である。
我という実体がないからこそ、法(ダルマ)という「ありかた」によって自己が存在できている。だから自己には決まったすがたはない。
すなわち、「迷悟あり」「修行あり」「生あり」「死あり」「諸仏あり」「衆生あり」というのは、そのどれもが法(ダルマ)から照らし見たときの自己のすがたであるということである。「迷い」も「悟り」も「生」も「死」も「諸仏」も「衆生」も、すべて自己が法(ダルマ)というありかたで現成しているすがたであり、法(ダルマ)の上で一等である。
したがって、重要なのは、ここで述べられているのは仏法から見た自己の事実であるので、ここに書かれている「迷いと悟り」「生と死」「諸仏と衆生」は二元相対的な概念ではないという点である。
とくに「迷悟」はここですでに一つの言葉として書かれているように、迷いを捨てて悟りを追いかけるような修行は仏道修行ではないという強調の含みが込められている(修証一等)。
しかし、それは「生と死」や「諸仏と衆生」(もしくはここには書かれていないが「涅槃と生死」)についても同様で、仏法は善悪・是非を基準にした世法から超え出ているので、それらを二元相対的なもの(どちらが是でどちらが非である)と考えてはならない。
「諸法の仏法なる時節」はまさに「現成公案」である時節であり、如是(諸法実相)なる時節である。「~あり」とは如是という絶対肯定の面を示している(この「~あり」は相対的な「有無」におけるの「有り」ではない)。
しかし同時に、この絶対肯定(如是)の面が成立するには、裏に絶対否定(不是)の面がなければならない。
その絶対否定(不是)の面が次の文「万法ともにわれにあらざる時節~」になる。
※参照 中村元『龍樹』(講談社学術文庫)