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「山水経」メモ①

『正法眼蔵』に「山水経」という巻があります。なかなか難解な巻ではありますが、ユニークな内容なので、個人的に繰り返し読むことが多いです。なので、今まで読んでくるなかで気づいたことを自分なりのメモとして書いていきたいと思います(あくまで個人的な解釈です)。


巻名について

「山水」に「経」(スートラ)という文字がつけられている。
「経」(スートラ)とは経典のことではあるけれども、禅では自己のことをいう。道元禅師は「仏経」巻のなかで以下のように言っている。

「いわゆる経巻は、尽十方界これなり。経巻にあらざる時処なし。」

自己の生きる時と場のすべてが経巻なのだという。

そうすると、「山水経」における山水とは、ただの自然をうたっているわけではなく、自己のことをいっていることになる。ではその「自己」とは何なのか。そのことを踏まえて、本文を読んでいきたいと思う。

以下、本文。

 而今の山水は、古仏の道現成なり。ともに法位に住して、究尽の功徳を成ぜり。空劫已前の消息なるがゆゑに、而今の活計なり。朕兆未萌の自己なるがゆゑに、現成の透脱なり。山の諸功徳高広なるをもて、乗雲の道徳かならず山より通達す、順風の妙功さだめて山より透脱するなり。

『正法眼蔵』(二)岩波文庫

「而今の山水は、古仏の道現成なり。」

まず文頭に「而今」と「古仏」が対としてある。「而今」は自己の生きる絶対としての「今」のことであるから、ここでの古仏の「古」は「昔の」という意味ではなく、「永遠」という意味になる。であるから、ここでの「古仏」とは永遠の仏、すなわち法身仏と考えられる。
 つまり、時間を超えた「今」としてある山水は、永遠の仏(法身)の真理のことば(=道)の現成である、ということになる。空海は、森羅万象は大日如来の文字である、と言っているが、同じ意味であると思われる。
「古仏の道現成」それが本当の「経」の意味である。

「ともに法位に住して、究尽の功徳を成ぜり。」

《山水はどちらも法(ダルマ)というありかたで存在しており、究め尽くされた功徳を成している。》

つまり、ここでの山水は目に見える現象としての自然のことではなく、法(ダルマ)としての存在なのだと言っている。

「空劫已前の消息なるがゆゑに、而今の活計なり。朕兆未萌の自己なるがゆゑに、現成の透脱なり。」

《法(ダルマ)としての山水は、空劫已前(=時空発生以前)のようすであるがゆえに、それが「今」という〈いのち〉のはたらきとなっているのである。同時に、それは朕兆未萌の自己(=父母未生以前の自己)であるがゆえに、「今」という〈いのち〉のはたらき(=現成)は、そのまま「空」として脱落(=透脱)しているのである。》

ちょっと分かりづらいけれども、『般若心経』でいうならば、前半部分は、「空即是色」であり、後半部分は「色即是空」ということになる。
要するに、「今」というのは現象以前の「空」の世界によって成り立っており、その父母未生以前の自己、空としての自己が本当は生きているのだということ。

「山の諸功徳高広なるをもて、乗雲の道徳かならず山より通達す、順風の妙功さだめて山より透脱するなり。」

《「山」のもろもろの功徳は高く広いものであることによって、雲乗(=自由自在)の道の功徳は必ず「山」から通達するのであるし、雲を運ぶ順風(=仏性)の妙なる功徳は決まって「山」から透りぬけてくるのである。》

「乗雲」とは仏道(修証)のこと、雲を運ぶ「風」とは仏性のことと解釈した。ここでの「山」は朕兆未萌(=父母未生以前)の自己のことであるから、仏道におけるすべての功徳はその本来の自己からやってくる、ということだろう。

次には、芙蓉道楷禅師の有名な「青山常運歩」のことばが引用される。

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