見出し画像

「山水経」メモ⑲

 いま人間には、海のこゝろ、江のこゝろを、ふかく水と知見せりといへども、龍魚等、いかなるものをもて水と知見し、水と使用すといまだしらず、おろかにわが水と知見するを、いずれのたぐひも水にもちゐるらんと認ずることなかれ。いま学仏のともがら、水をならはんとき、ひとすぢに人間のみにはとどこほるべからず。すすみて仏道のみづを参学すべし。仏祖のもちゐるところの水は、われこれをなにとか所見すると参学すべきなり、仏祖の屋裏また水ありや水なしやと参学すべきなり。

『正法眼蔵』(二)岩波文庫

《今、人間界では、海のこころ、江河のこころを、深く水と知見しているといっても、龍魚などがいかなるものをもって水と知見し、水として使用しているのかといまだ知らず、愚かにも自分が水と知見しているのを、どの生き物も水として用いているのであろうと認識することがあってはならない。今、仏道を学ぶ者たちは、「水」をならおうとするとき、一様に人間界の水のみに滞るべきではない。さらに進んで仏道の「水」を参学するべきである。仏祖の用いるところの「水」は、自分はこれを何として見ているものなのかと参学するべきであるし、仏祖の住む「家」の中にはまた「水」があるのか「水」がないのかと参学すべきである。》

仏祖の用いる「水」

人間界における水は、あくまで人間が「流れる水」と見ているものである。その水を他の生き物たちが同じように水として認識し、用いているわけでは当然ない。人間が見ている世界をそのまま世界であると思ってはならない。

仏道における「水」は人間界の水のみならず、すべての衆生の世界を現成させている「水」である。それは当然ながら人間界の水を含むが、人間が水だと思っているような限定されたものではない。万物を生かし、すべての衆生に平等にはたらいている〈いのち〉のはたらきそのものが仏道における「水」であり、仏祖の用いる「水」である。だが、それはいったい何なのか。普段、自分はそれを「何」として見ているのか。万法とは何なのか、自己とは何なのか。そのように参学するのが仏道であるという。

そして仏祖の住む「家」の中には「水」があるのか、はたまた「水」はないのかと参学せよともいう。仏祖の住む「家」とは、もちろん「山中」であるが、そこは「水」の湧き出す根源である。そこには「水」があるのか、ないのか。

狗子仏性

「仏性」の巻には趙州和尚と弟子との有名な「狗子仏性」の問答が引用されている。そのなかで、その弟子の問い(狗子にまた仏性があるのかないのか)に対して道元禅師は以下のようにコメントしている。

「この問の意趣あきらむべし。狗子とはいぬなり。かれに仏性あるべしと問取せず、なかるべしと問取するにあらず。これは、鉄漢また学道するかと問取するなり。」(この問いの本当の意味を明らかにしなさい。狗子とは犬である。「かれ」に仏性はあるはずだと問うているのではなく、ないはずだと問うているのでもない。これは、大修行底の鉄漢もまた学道するのかと問うているのである)

ここでの「狗子」とはただの犬のことではなく、「かれ」すなわち本来の面目のことであり、仏性のことである。つまり、趙州和尚のような大修行底の鉄漢は、仏性そのものを生きているが、そのような仏祖もさらに学道をするのか、と問うているのだという。

仏祖の住む「家」の中には「水」(仏性)があるのかないのか、というのも、仏祖はさらに学道をするのか、という問いである。それは言い方を変えれば、仏性はまた学道をするのか、という問いであると言ってもいい。

趙州和尚いわく「無」。

もちろん、この「無」はただの否定ではない。甚深微妙なる〈いのち〉のはたらきそのもののことを「無」という。

終わりのない学道

「山水経」のなかで以前、学道、つまり仏道を学ぶということは、「山」(法身)の参学であり、「水」(仏性)の参学であると言われていた(「山水経」メモ⑥「山水経」メモ⑫参照)。

つまり仏道は〈いのち〉そのものが行っているものであり、そのはたらきは永遠にやむことがない。それが「青山常運歩」であり、「東山水上行」ということばの意味であった。

したがって問いの答えははっきりしている。学道はするとかしないとかの問題ではなく、〈いのち〉のはたらきであるこの世界の存在自体が学道なのである。人であれ、魚であれ、木々であれ、仏であれ、すべての存在はそれぞれの世界において自己を学んでいるのであり、それが「山」の参学であり、「水」の参学ということである。だから「道」を学ぶということに終わりはない。


いいなと思ったら応援しよう!