「身心学道」メモ⑥

 「発菩提心」は、あるいは生死にしてこれをうることあり、あるいは涅槃にしてこれをうる事あり、あるいは生死涅槃のほかにしてこれをうることあり。ところをまつにあらざれど、発心のところにさへられざるあり。境発にあらず、智発にあらず、菩提心発なり、発菩提心なり。

『正法眼蔵』(一)岩波文庫

《「発菩提心」は、あるいは生死(迷いの世界)においてこれを得ることがあり、あるいは涅槃(悟りの世界)においてこれを得ることがあり、生死・涅槃以外においてこれを得ることがある。(菩提心がおこるのに)ある状態を期待するのではないけれども、そもそも発心はどんな状態にも妨げられることはないのである。(菩提心は)環境によっておこるのではないし、主体の智によっておこるのでもない。菩提心によっておこるのである。それが発菩提心である。》

菩提心による発心

菩提心がおこるということは、生死の真っただ中で得ることもあれば、煩悩が滅した解脱の境地で得ることもある。もしくは、それ以外の状態で得ることもある。つまり、どのような状態、環境とにかかわらず、菩提心はおこる。なぜならば、それは菩提心そのもの・・・・のはたらきによっておこるものだからである。

道元禅師のいう修証はこの菩提心が主体となって行われるものである。「発菩提心(発無上心)」の巻では「坐禅弁道これ発菩提心なり」と言っている。つまり、仏道修行(学道)は、菩提心が菩提心をおこしていくことであるといえる。


発菩提心は、有にあらず無にあらず、善にあらず悪にあらず、無記にあらず。報地によりて縁起するにあらず、天有情はさだめてうべからざるにあらず。たゞまさに時節とともに発菩提心するなり、依にかゝはれざるがゆゑに。

同上

《発菩提心は、有でもなく無でもない、善でもなく悪でもない、善でも悪でもない(=無記)のでもない。過去の修行に対する果報として得られた境地によって縁起するのではないし、苦しみのない天の衆生だからといって決まって得ることができないのでもない。ただまさに時節とともに菩提心はおこるのである。環境には関係がないからである。》

時節とともにおこる

菩提心は有無や善悪などの二元性で測れるものではない。修行や功徳を積んだ結果として現れるものでもない。天人は苦しみをもたないから菩提心をおこすことはないなどと決めつけることはできない。菩提心とはそうした人間のはからいを超えておこるものである。それは時節とともにおこるとしか言いようがない。


発菩提心の正当恁麼時には、法界ことごとく発菩提心なり。依を転ずるに相似なりといへども、依にしらるゝにあらず。共出一隻手なり、自出一隻手なり、異類中行なり。地獄・餓鬼・畜生・修羅等のなかにしても発菩提心するなり。

同上

《菩提心のおこるまさにその時には、法界(宇宙)のことごとくが菩提心をおこしているのである。それは環境を変化させるように思えるけれども、環境によって菩提心が知られるのではない。発菩提心の時、法界(宇宙)全体が共に〈ひとつ〉の手を差し出しているのであり、自己が〈ひとつ〉の手を差し出しているのである。それが異類(六道のさまざまな衆生)のなかに入って衆生を救済することである。(人間界、天上界のみならず)地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界などの四悪道のなかにおいても菩提心をおこすのである。》

〈一心〉としての菩提心

先ほど、「仏道修行(学道)は、菩提心が菩提心をおこしていくことである」と書いた。上述の「発菩提心(発無上心)」の巻ではまた「一発菩提心を百千万発するなり。修証もまたかくのごとし」と言っている。菩提心をおこすというのは一度のことではない。百千万発するのだという。それは〈一心〉としての菩提心のはたらきを自己の身心をもって不断に生かしていくということだろう。
道元禅師がただ「菩提心」と書かず、「発菩提心」と書いているのは、菩提心というものがどこかにあるわけではなく、あくまで動的な行を通してのみ現成するものだからだと思われる。それは仏性も同じである。

菩提心は〈一心〉であり、全衆生と一如であるから、菩提心がおこる時には、全衆生が菩提心をおこしている。したがって、四悪道の衆生の真っただ中にあっても不断に菩提心をおこしていくということは、四悪道に陥っている衆生のなかにもおのずと菩提心がおこる、そうした時節に通ずるということである。

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