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「現成公案」メモ⑯

以下は「現成公案」巻の最後の節になる。ここでは麻谷山宝徹禅師(馬祖道一の法嗣)と弟子の僧との問答が取り上げられ、前節における「得一法、通一法」「遇一行、修一行」の意味が具体的に示される。

 麻谷山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、
「風性常住、無処不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ」。
 師いはく、「なんぢたゞ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらず」と。
 僧いはく、「いかならんかこれ無処不周底の道理」。
 ときに、師、あふぎをつかふのみなり。
 僧、礼拝す。

 仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。風性は常住なるがゆゑに、仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。

『正法眼蔵』(一)岩波文庫

「麻谷山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、
『風性常住、無処不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ』。」

麻谷山宝徹禅師が扇を使って風を送っていたときに、弟子の僧が来て問うた、「風性(空気)はつねに存在し、行き渡らないところなどありません。なのに、どうしてそのうえ和尚は扇を使うのでしょうか?」。

風性(仏性)

ここでの「風性」は仏性のことをいう。大乗仏教の経典『涅槃経』には「一切衆生悉有仏性」(一切の衆生はことごとく仏性を有している※)という有名な言葉がある。

つまり、風の性である空気はつねにどこにでもあるのに、なぜわざわざそれを扇ぐ必要があるのか、という僧の質問には、同時に、すべての衆生はみな仏性をもっているのに、どうしてわざわざ修行などする必要があるのかという意味が込められている。これは道元禅師が仏門に入って最も深刻に自身に突き付けられた問いでもある。だからこそ、最後にこの問答をもってきているのだろうと思う。

※道元禅師は「仏性」巻で、「一切衆生悉有仏性」を「一切の衆生はことごとく仏性を有している」という意味にとらずに、一切の衆生は悉有(=一心)であり、それが仏性なのだ、というふうに説明している

「師いはく、『なんぢたゞ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらず』と。」

宝徹禅師は言った、「おまえは、ただ風性(空気)はつねに存在しているということは理解していても、いまだ風性(空気)の行き渡らないところなどない、という道理を理解していない」と。

弟子の僧は、一切の衆生は仏性をもっている、もしくはすべての衆生は仏性に生かされている、ということは理解はしているけれども、その仏性のはたらきが自己の世界をあまねく照らしており、万法として自身に現前している、という事実に本当には気づいていない。

「僧いはく、『いかならんかこれ無処不周底の道理』。」

僧は言う、「どういうことなのですか、無処不周底(あまねく行き渡らないところはない=すべてのところにあまねくはたらいている)の道理とは?」

「ときに、師、あふぎをつかふのみなり。
 僧、礼拝す。」

そのとき、宝徹禅師は扇を使うのみであった。
僧は礼拝した。

無処不周底の道理

扇を使うという日常底の行い(一行)に仏性のはたらきが尽くされている。それが行を修すること(修行)である。師匠の宝徹禅師はいつでもそのように扇を使っていたのに、弟子の僧は気づいていなかった。

ところが、このとき、その仏性を使う禅師のすがたが、僧自身の自己のようすとして・・・・・・・・・、今まさに現前していたのである。そのことにハッとなった僧は、おのずと礼拝した。

僧が気づいたのは、この僧が自己の問い(=公案)と真剣にひとつになっていたからだろう。だから公案が自己のようす(=目の前の禅師が扇を使うすがた)として現成したのだ。禅師もそれに気づかせるために扇をただ扇ぎ続けたのだろう。

もちろん「扇ぐ」ということは自己の仏性を扇ぎ出すという意味合いがある。

自己が本来、仏性をもっているといっても、それを自身の生活のなかで気づきをもって実証しなかったら、それはあらわれることはない。そして仏性は常住しているといえども、扇ぎ続けなければ・・・・・・・、現成しない。いや、扇ぎ続けるからこそ常住(永遠不滅)なのだと言ったほうが正しい。

「仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。」

仏法が体験として実証され、正しく伝わっていく活路というのは、こういうものである。常住であるならば扇を使う(=修行をする)必要はない、使わなくとも風(=仏性)を味わうことができると言うのは、常住(永遠不滅)であるということの本当の意味を理解していないし、風性(仏性)をも理解していないのだ。

「風性は常住なるがゆゑに、仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。」

風性は常住(永遠不滅)であるがゆえに、仏家の風は、大地が黄金である事実を現成させ、長河の水をまるで醍醐のような最も美味な飲み物であるかのように熟成させるのである。

娑婆即寂光土

「大地」とは万法のことであり、「長河の水」とは衆生の心のことである。風性つまり仏性は仏の性質である。衆生がもともと自分に備わっている仏性をつねに・・・修行によりあらわしていくのなら、大地(万法)は輝き、自己の心もより深く熟していくことになる。
衆生が本来の自己(仏性)に目覚めていけばいくほど、この娑婆世界に仏の光が増していくというのは大乗仏教の「娑婆即寂光土」の教えである。どこか遠い世界や遠い未来に仏国土は存在しない。自己の生きる〈今、ここ〉を抜きにして、仏の世界などない。
そして、錬金(=黄金)や発酵(=蘇酪)を比喩として説明しているように、一気に理想郷のような悟りの世界などが実現されることはありえず、どこまでも自己を手放し、そして深めていく、という実証のなかでしか、寂光土は現成しない、ということである。


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