「身心学道」メモ②
《仏道を学習するのに、とりあえず二つの学び方がある。いわゆる「心」をもって学び、「身」をもって学ぶことである。》
「心」と「身」の学道
仏道を学習する、すなわち学道には、「心」をもって学ぶことと「身」をもって学ぶことがあるという。以降「心」の学道と「身」の学道について順に語られていくが、まず「心」をもって学ぶというときの「心」とは何か。
《「心」をもって学ぶというのは、あらゆる「心」をもって学ぶことである。そのあらゆる「心」というのは、「慮知心」(考え知る心)、「肉団心・草木心」(ハートの心)、「積聚精要心」(物事の核心を集約した心)などである。また、仏と心が通じ合うことによって、「菩提心」(生きとし生きるものの幸せを願い、真実の生き方をしようとする心)をおこしてのち、仏祖の大道に帰依し、つねに菩提心をおこしていく仏の行いを習い、学んでいくのである。》
「心」の学道
まず「心」による学道である。それには、「慮知心」(考え知る心)、「肉団心・草木心」(ハートの心)、「積聚精要心」(物事の核心を集約した心)などのあらゆる「心」を駆使して学ぶのが「心」の学道である。そして、仏の「心」と感応道交することにより、菩提心をおこし、仏祖の大道に帰依していく。「発菩提心の行李」というときの「発菩提心」とは、つねに菩提心をおこしていくこと、つまり菩提心のはたらきによって日常生活そのものが行われていくことを意味すると思われる。
また、「慮知心」には”思慮分別する心”という意味があるが、これは二元相対的な考えという意味での分別心ではなく、じっくりと物事を吟味し、何が本当かを弁えるという意味であると思われる。
道元禅師は「発菩提心」巻のなかで以下のように言っている。
「この慮知心にあらざれば、菩提心をおこすことあたはず。この慮知をすなはち菩提心とするにはあらず、この慮知心をもて菩提心をおこすなり。」
人間の慮知(考え知ること)が菩提心なのではないが、菩提心をおこすには、慮知心をもってしっかりと教えについて学び、真偽を弁えていくことが必要だということだろう。ただがむしゃらに坐禅したり、苦行めいたことをしても、正しい道のあり方を知らなければ、間違った修行になってしまう。
《たとえいまだ真実の菩提心がおこらないという場合でも、先に菩提心をおこした仏祖の法(教え)を習うべきである。それが「発菩提心」(菩提心をおこしていく心)であり、「赤心片々」(日常のすべてが真実となっている心)であり、「古仏心」(永遠の仏の心)であり、「平常心」(平常なる心)であり、「三界一心」(世界がひとつである心)である。》
仏祖の「心」
仮にいまだ真実の菩提心がおこっていなくとも、すでに菩提心をおこした仏祖の教えを習うことにより、仏祖の「心」を学んでいくことが大事だという。仏祖の「心」というのは、「発菩提心」(菩提心をおこしていく心)、「赤心片々」(日常のすべてが真実となっている心)、「古仏心」(永遠の仏の心)、「平常心」(平常なる心)などであるが、それらについては後ほどあらためて触れられる。
《これらの「心」を放ち忘れて学道することがあり、逆に取り上げて学道することがある。このとき、(一方は)真剣に考えて学道し、(一方は)考えを捨てて学道をする。》
拈挙(思量)と放下(不思量)
上に挙げた仏祖の「心」を「これはどういうことか」と真剣に考えて学道をすることもあれば、そういうものを一切忘れて学道することもある。学道には「拈挙」(思量)と「放下」(不思量)という二つの側面がある。どちらかに偏ってもダメだということだろう。
《あるときは、釈尊が迦葉尊者に法とともに金襴衣を正伝し、迦葉尊者がそれを受けた。あるときは、慧可大師は三拝をし、達磨大師は「おまえは私の髄を得た」と言って慧可大師に法を授けた。五祖は慧能禅師に米をつかせ、衣を伝授した。これらはすべて「心」をもって「心」を学んだのである。》
以心学心
仏祖から仏祖へと法が伝わっていったというのは、以心伝心ならぬ「以心学心」だという。つまり、仏の「心」を仏の「心」をもって学ぶことによって、仏の「心」と「心」がひとつになり、法が伝わっていったのである。
《髪を剃って衣を染める、それはすなわち「心」を回らすことであり、「心」を明らかにすることである。城を出て山へ入るというのは、出ることも「一心」であり、入ることも「一心」なのである。「山」へ入るということは、不思量底である自己を思量(参究)することであり、「世」を捨てるということは、非思量という智慧に目覚めることである。この「心」を真実の眼にまるめてきたことは二三斛ほどであり、この「心」を迷いの心として弄んできたことは数え切れないほどなのである。》
三界一心
出家することは、仏の「心」へと自分の心の向きを変えることであり、本来の自己の「心」を明らかにすることである。
「思量箇不思量底」(不思量底である自己を思量する)というのは坐禅のことであるが、それは本来の自己である「山」へ入ることであり、「世」を捨てるというのは、無常である世界をあるがままに観ずる智慧(非思量)に目覚めるということである。つまり「山」(不思量底)へ入ることも、「世」(無常)を捨てることも、本来の「心」によってなされていることなのである。
その本来の「心」を仏祖たちは真実の眼(=正法眼)にしてきたのであるが、それに対して衆生はそれを迷いの心として弄ぶことにより、延々と生死流転してきたのである。仏祖の「心」も衆生の「心」も本来は同じ「心」である。すなわち「三界一心」である。
《このように学道するにあたって、功(=修)のあるところに賞(=証)はおのずからやってきているが、賞(=証)はあっても功(=修)に終わりはない。けれども、そうした学道が、密かに仏祖の鼻孔を借りて呼吸をさせ、驢馬の脚を取り上げて印可証明させる。それがすなわち遠い昔から変わることのない手本なのである。》
終わりのない学道
修行のなかにすでに実証は現れているが、実証(悟り)があっても修行そのものに終わりはない。そうした終わりのない学道のなかで、仏祖と同じく坐禅弁道をするとき、それは密かに仏祖の鼻孔を借りて呼吸をしている(つまり仏祖と同じ「心」となっている)のであるし、驢馬の脚のような日常底のものを機縁に印可証明につながることもある。そのような学道が連綿と過去から行われてきたのである。