「山水経」メモ⑮
《『文子』にいわく、「水の道は、天に上っては雨露をなす。地に下っては江河をなす」。
今、出家でない者が言うところも、なおこのようである。仏祖の児孫を名乗ろうとする者が、出家でない者よりも道理が分かっていないのは最も恥ずべきである。いわく、「水の道」は水が対象として認識するものではないけれども、水はみごとに自らのはたらきを実現する。水は「道」を知らないのではないのだけれども、水はみごとに自らのはたらきを実現するのである。》
「水の道」
以下、『文子』の一節から「水の道」についての考察がなされていく。
『文子』のいう「水」は地水火風における水のことであるが、道元禅師が伝えようとしているのは仏道における「水」である。したがって「水の道」は「仏の道」でもある。
水は自らの「道」を対象として認識しているわけではないが、「道」を知らないのではなく、むしろ完璧に知っている。だから、雨露をなしたり、江河をなしたりと、自らのはたらきを完全にまっとうしているのである。
同じように、仏道における「水」も、その功徳は本来すべての衆生に行き渡っている。
《「天に上っては雨露をなす」という。知るべきである。「水」は、はるかかなたの上天上方にも昇って雨露をなすのである。雨露は衆生の世界にしたがってさまざまである。「水」の至らないところがあるというのは小乗の声聞による教えか、あるいは外道による邪な教えである。「水」は火焔のなかにも至るのであるし、心念・思考・分別心のなかにも至るのであるし、仏性を覚智することのなかにも至るのである。》
仏の法雨
天から雨露をなすというのは、仏の法雨のことである。
大乗の経典である『法華経』(薬草喩品第五)には、仏の説法は「雨」のごとく、衆生の機根に合わせて、平等に法の潤いを与えるということが説かれている。
それに対し、小乗の声聞は、一部の上根の修行者だけが「水」を得られるのだと言い、もしくは外道(仏道以外の修行者)は、瞑想による深い静寂のなかだけに「水」は現れると主張するかもしれない。しかし、仏の「水」は、衆生の機根や状態によって現れたり現れなかったりするようなものではなく、仏の道において、その功徳は平等につねにはたらいている。それは、衆生の煩悩(=火焔)のなかにも行き渡っているし、人間の思考作用のなかにも行き渡っているのである。
煩悩と思考作用は、それ自体どちらも悪いものではない。「水」の功徳により、煩悩は菩提ともなるし、思考は正しい思考(=正思惟、非思量)にもなる。だから、それらを否定したり取り除こうとするのは邪道である。泥水も「水」であり、そのなかからしか白蓮は咲かないからである。
仏性(本来の自己)を覚智するということも、(仏性が「水」なのだから)まさに「水」それ自身による功徳なのである。
ただし、仏の「水」の功徳はあくまで仏の道においてはたらいているのであるから、修証とともに現成する。修証を抜きにしてはただの自然外道に陥ってしまう。
「この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修ぜざるにはあらはれず、証ぜざるにはうることなし」(『弁道話』)である。