「山水経」メモ⑧
「『石女夜生児』は、石女の『生児』するときを『夜』といふ。」
《「石女夜生児」は、石女が子を生むときを「夜」という。》
「青山常運歩、石女夜生児」
芙蓉道楷禅師の「青山常運歩、石女夜生児」ということばの後半部分がここでようやく出てきた。
「青山常運歩」は法身である「青山」が永遠にその歩みをやめないという意味であった。その「青山常運歩」と対になっているのが「石女夜生児」である。
以前に以下の記述があった(「山水経」メモ⑥参照)。
「山の山児を生ずる時節あり、山の仏祖となる道理によりて、仏祖かくのごとく出現せり。」
「山」が山の子を生む時節がある。それが山が仏祖となることであり、仏祖がこの世に現れ出ることであるという。「山」が山の子を生むということと「石女」が子を生むということは同じことを意味している。つまり仏祖が現れるということである。
「青山」と「石女」
「青山」は法身という〈いのち〉そのもののことであるが、では「石女」とは何を意味するのか。
「石女」は日本語では「うまずめ」とも読むが、現代では死語でありただの差別語にすぎない。もしくは石造の女人像のことであるという説もある(岩波文庫版ではそのような注釈がなされている)。いずれにせよ、石女が子を生むというのは逆説的な表現である。だが、そういう表面的な意味にとらわれてはならない。それは不動であるはずの「山」が歩くということと同じである。一見したところ逆説的に見える表現で何を言っているのかというと、要するに、これは現象世界のことではなく、時空以前の消息を言っているのだということである。そこでは確かに「石女」が子(=仏祖)を生んでいるのである。
では結局、ここでの「石女」とは何なのか。だが、その前になぜ「夜」なのか考えてみたい。
「常」と「夜」
「青山常運歩」と「石女夜生児」において、「常」と「夜」は対応している。「常」とは、無常である現象世界以前、すなわち「永遠」のことである。ということは、ここでの「夜」も、現象世界における「昼夜」のことではなく、明(=現象世界)に対する暗(=空の世界)のことを言っていることが分かる。つまり、「夜」という現象以前の世界(空の世界)で「石女」は子(=仏祖)を生んでいる、ということになる。それが「石女夜生児」の意味である。
観音菩薩(正法明如来)
『正法眼蔵』の「観音」巻では、雲巖と道吾(二人とも中国曹洞禅の流れをくむ重要な仏祖)による問答が紹介されている。(↓詳しくは以前書いた記事を参照)
雲巖と道吾の両禅師による問答の内容は、ざっくり説明すると、以下になる。
雲巖が「大悲(観音)菩薩は無限の手眼を用いて何をしているのか?」と問うと、道吾が「人が夜間、就寝中に、手を後ろに回して枕を探っているようなものだ」と言う。それに対し雲巖は「なるほど分かった。世界は観音の手眼のはたらきそのものだ」と言うと、道吾は「自己が観音の手眼のはたらきそのものだ」と言った。
「人が夜間、就寝中に、手を後ろに回して枕を探っているようなものだ」というのは回向返照の退歩、つまり坐禅(自受用三昧)のことを言っている(「枕」とは仏性もしくは観音の手眼のはたらきのことである)。それは仏の世界との感応道交であり、感応道交とは、観音のはたらきと自己がひとつに通ずることである。それは「夜」(空の世界)に行われている。
したがって、観音の手眼のはたらきとは、「山水経」における「水」のことである。
「観音」巻のなかで道元禅師は観音について以下のように言っている。
「いま道取する大悲菩薩といふは、観世音菩薩なり、観自在菩薩ともいふ。諸仏の父母とも参学す、諸仏よりも未得道なりと学することなかれ。過去正法明如来也。」
観音菩薩とは、「菩薩」ではあるけれども、諸仏よりも未得道の存在ではなく、むしろ諸仏の父母ともいえる存在であり、もともと正法明如来といわれた存在なのだという。その如来が衆生を救うために菩薩のはたらきを為しているのが観音菩薩なのである。したがって「石女」は観音菩薩のことであると考えられる。
ただ、それならば、なぜ「法身」や「観音」とストレートに言わず、わざわざ「青山」だとか「石女」などということばを使うのかという疑問が残るが、「法身」や「観音」というのはもともとインドで生まれたことばであり、それをそのまま使うのでは自らの本当の表現にはならないからである。外来のことばをそのまま使うのではなく、あくまで自分たちの身近なことばのみで表現しようというのが中国禅の特徴なのだ。だから、ここでは「山」や「水」や「石」ということばが逆説的な意味合いで用いられているが、それによって通常の常識的な解釈を無効にしつつ、同時に仏の世界を表わしているのである。
長くなってしまったが、続いて本文に戻る。
「おほよそ男石女石あり。これよく天を補し、地を補す。天石あり、地石あり。俗のいふところなりといへども、人のしるところまれなるなり。」
《一般的に「男石」「女石」といわれるものがある。これはよく天を補し、地を補す。「天石」というものがあり、「地石」というものがある。これらは世俗の世界でいわれるところであるといっても、本当にその意味を知っている人はまれである。》
世俗においても、「石」はただの動かない鉱物であるだけではなく、さまざまな不可思議なるはたらきを持ったものとして認識されている(ただし、それを本当に知っている人はまれであるが)。
仏道を学ぶ者ならば、なおさら、「山」と聞いてすぐに不動であると決めつけたり、「石」だからといって何も生み出さない死んだようなものであるといった固定観念にとらわれてはならない、ということだろう。
「生児の道理しるべし。生児のときは親子並化するか。児の親なるを生児現成と参学するのみならんや、親の児になるときを生児現成の修証なりと参学すべし、究徹すべし。」
《子が生まれる(=仏祖が現れる)ということの道理を知るべきである。子が生まれるときは親と子が並んで同時に化導するのか。子がそのまま親であるという目覚めのことを「子が生まれること」の現成であると参学するだけではなく、親が子になるときをこそ「子が生まれること」の現成における本当の修証なのだと参学するべきである、究め徹するべきである。》
「親」とは仏(法身、観音)であり、「子」とは衆生および仏祖である。親と子が並んで同時に化導する、というのは『法華経』における多宝如来と釈迦如来が宝塔に並んで坐る場面を意識しているのかもしれない。要するに、仏祖が衆生を化導するというのは、親(法身)と子(仏祖)が同時にやっていることなのだということだろう。子がそのまま親であるというのは、修行者(=子)が本来の自己(=親)に目覚めることをいうが、仏道修行というのはそれで終わりではなく、さらに、親が子になる、つまり法身もしくは観音が仏祖となって衆生を導いていく、ということまでを含めたものだということを言っているのだろう。