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「山水経」メモ⑱

 しかあるに、龍魚の水を宮殿とみるとき、ひとの宮殿をみるがごとくなるべし、さらにながれゆくと知見すべからず。もし傍観ありて、なんぢが宮殿は流水なりと為説せんときは、われらがいま山流の道著を聞著するがごとく、龍魚たちまちに驚疑すべきなり。さらに宮殿楼閣の欄堦露柱は、かくのごとくの説著あると保任することもあらん。この料理、しずかにおもひきたりて、おもひもてゆくべし。この辺表に透脱を学せざれば、凡夫の身心を解脱せるにあらず、仏祖の国土を究尽せるにあらず。凡夫の国土を究尽せるにあらず、凡夫の宮殿を究尽せるにあらず。

『正法眼蔵』(二)岩波文庫

《そうであるから、龍魚が水を宮殿と見るとき、それは人が宮殿を見るようであるはずであり、決して流れ行くものと知見するはずはない。もし外側から観ているものがいて、龍魚に向かって「あなたが宮殿と見ているものは流れる水なのだ」と説こうものなら、われわれが今「山が流れる」ということばを聞くときのように、龍魚はたちまち驚き疑うはずである。そのうえに宮殿・楼閣の欄干やきざはしや柱は、このように説かれることがあると受け持っていくこともあるかもしれない。このような理解のあり方を、じっくりと考え抜いていくべきである。このあたりで(古い認識を)透り脱けることを学ばなければ、凡夫の身心を解脱することにはならないし、仏祖の国土を究め尽くすことにならない。凡夫の国土を究め尽くすことにもならないし、凡夫の宮殿を究め尽くすことにもならない。》

龍魚と人間

人間が世界を国や社会などの概念によって住むところ(=宮殿)として見ているように、龍魚は水をそのようなものとして見ている。だが、もし龍魚に「あなたたちが見ているのは本当は流れる水なのだ」と言おうものなら、龍魚は驚き、「はぁ? そんな馬鹿な」と疑うだろう。それは人が「山は歩く」とか「山は水の上を流れ行く」という仏祖のことばを聞いたときと同じ反応である。それでも、龍魚も、もしそのように聞き、自らの認識に疑いの目を向けるならば、自分が住んでいる宮殿や楼閣の欄干や柱などは、実は「水」なのかもしれないと思い始めることもあるかもしれない。
道元禅師らしいユニークな語り口であるけれども、仏道を学ぶうえで極めて本質的な話であると思う。

人間は人間の凝り固まった認識と知覚によって世界を限定してしまっている。その意味で、まさにここに出てくる龍魚と同じである。だから、当たり前だと思っている自らの認識を一度、本気で疑ってみなければ、そこから抜け出すことはできない。

諸行無常と「三界火宅」

仏教では諸行無常と説く。人間は、時間と空間の概念およびそれに基づく国や社会などの概念によって世界を固定された実体的なものとして認識しているが、それは幻想であり、すべては水のように流れ、無常である。

『法華経』の三界火宅の比喩では、もう少し過激に、この世は無常の火に焼かれた家であるという。当然、中にいる子供たち(=衆生)にはそのようには見えない。しかし「外」にいた主人(=仏)には、そのことが如実に見えている。だから主人(=仏)は外に出るように、さまざまな方便でもって子供たちに呼びかける。それが仏の教えである。

したがって、仏の教え(=仏法)とは、人間世界の常識(=世法)ではない。人間世界(という「家」)の「」から、人間がどのようにして世界を間違って認識し、自ら苦しみを生み出しているかを説くものである。「中」にいては決して自らの苦しみの原因を知ることはできない。だから「家」の「外」に出なければならない。それが「家を出る」ことである。それは、無常の世界を実体のように見ている認識それ自体から出る・・・・・・・・ということである。

自らの認識を根本的に疑うことを通じて、古い認識を透り脱けていくことを学ばないかぎり、凡夫の身心を解脱することはできないし、仏祖の国土を知ることもできない。凡夫の身心を解脱し、仏祖の国土を知ることがないならば、凡夫の世界が本当はどのようなものかも分からないし、凡夫の宮殿(=国や社会)のことを本当の意味で知ることもできない。


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