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「山水経」メモ㉓

 世界に水ありといふのみにあらず、水界に世界あり。水中のかくのごとくあるのみにあらず、雲中にも有情世界あり、風中にも有情世界あり、水中にも有情世界あり、地中にも有情世界あり。法界中にも有情世界あり、一茎草中にも有情世界あり、一拄杖中にも有情世界あり。有情世界あるがごときは、そのところかならず仏祖世界あり。かくのごとくの道理、よくよく参学すべし。

『正法眼蔵』(二)岩波文庫

《世界に水があるというだけではなく、「水界」に世界がある。「水中」がこのようであるだけではなく、「雲中」にも衆生の世界はあり、「風中」にも衆生の世界はあり、「地中」にも衆生の世界はある。宇宙全体のなかにも衆生の世界はあり、一茎の草のなかにも衆生の世界はあり、一本の拄杖のなかにも衆生の世界がある。衆生の世界があるということは、そのところに必ず仏祖の世界がある。このような道理をよくよく参学すべきである。》

縁起の世界

真如のはたらきである「水」(仏性)の世界、それは仏界であるが、そのなかに衆生の世界があるという。真如の「水」が、「雲」となり、「風」となり、「地」となり、宇宙(=法界)を生成している。そのすべてにおいて衆生の世界はある。すべての衆生は「水」のはたらきによって生かされているからである。

衆生の世界は一茎の草のなかにも、一本の拄杖のなかにもあるという。

どんな極小の微塵のなかにも極大の宇宙が含まれるというのは華厳の「法界縁起」の考え方である。といっても、それは、空間的な意味で小さなもののなかに大きなものが含まれるということではない。そうではなく、どんなミクロな世界であっても、その中心にそれ以外のすべての存在が縁起として関係づけられている・・・・・・・・・・・・・・ということである(そこに時間の概念を入れるならば天台の「一念三千」《一瞬の今に全宇宙が含まれる》になる)。だから、一茎の草というあり方にも、一本の拄杖というあり方にも、縁起的関係として、すべての衆生の世界がある・・

十界互具

天台には「十界互具」という考え方がある。
十界は、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界であるが、その一々に十界を含んでいる(つまり縁起として関係づけられている)。とすれば、地獄界にも仏界はあり、仏界にも地獄界はある。ただ、仏界からすれば、地獄界(および六道のすべて)は無明(錯覚)が引き起こしているものにすぎず、実在ではない。それに対し、地獄界の鬼には仏界の「水」も血膿にしか見えないため、苦しみしか生まない。

衆生の世界は仏界から見るならば、本来、真如の「水」が展開したもの、つまり純粋な縁起で成り立っているものであり、実体ではない。ただ衆生にはその事実が見えておらず、無明により自分の世界が実体のある現実だと思って生きているだけである(したがって六道を輪廻するしかない)。

本当はすべての衆生は仏界に包まれている。だから衆生の世界のあるところには必ず仏祖の世界があるのである。そして仏祖の世界である「水」そのものは、すべてを生成しつつ、同時にすべてから解脱している。

 しかあれば、水はこれ真龍の宮なり、流落にあらず。流のみなりと認ずるは、流のことば、水を謗ずるなり。たとへば非流と強為するがゆゑに。水は水の如是実相のみなり、水是水功徳なり、流にあらず。一水の流を参究し、不流を参究するに、万法の究尽たちまち現成するなり。

同上

《であるから、「水」は真龍の宮殿なのであり、流れ落ちるものではない。「流れる」とだけ認めるのは、「流れる」ということばが「水」を謗ることになる。具体的に言うならば、それに対し「流れにあらず」と強いて言うことになるからである。「水」は「水」のあるがままのすがた(=実相)のみであり、それが「水」が「水」であることの功徳なのであり、ただ流れるだけのものではない。「一水」の「流れる」(無常)を参究し、「流れず」(常住)を参究するときに、万法の真のすがたはたちまち現成するのである。》

「一水」

「水の如是実相」というのは諸法実相のことであり、仏によって観られた世界のすがたである。

「一水」とは一心であるが、「即心是仏」の巻では以下のように言われる。

「いはゆる正伝しきたれる心といふは、一心一切法、一切法一心なり。」

一心は一切の法(存在)であり、一切の法(存在)は一心である。「水」は真龍(=仏祖)の住む世界であるから、一心とは仏心である。仏心のなかに万法のあるがままのすがた(=実相)がある。したがって、仏心と一如である万法は、ただ流れるだけのもの、つまり輪廻を繰り返す無常なものなのではなく、無常(=流)でありながら、かつ常住不滅(=不流)なのである。


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